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1968年、
無責任体系が貫徹する千年の奴隷体制に
全共闘は日本史を切り裂く壮大な闘いを挑んで行く。
 


『私の天皇観』 辺境社(1981年)渡辺清
渡辺は、戦前の日本では、天皇の権威を借りて、上の者が下の者を、下の者がさらに下の者をそれぞれ絶対的に支配していくやり方(=内なる天皇制)が広がっていたと指摘している。
それは、
人々を支配する有効な仕組みであるとともに、おそるべき無責任の体系をつくりだすことになった。
「天皇の命令だということで、国のあらゆる悪事をはじめ、軍隊における理不尽な制裁さえ免罪になって」(127頁)しまうのであった。
 渡辺は、そのような無責任の体系を打ち破るためにも、天皇の戦争責任を裁くことがどうしても必要だと主張する。

責任の所在をつきとめ、それぞれに必要な責任を取らせていくためには
、まず天皇の責任を明らかにすることが不可欠なのである。渡辺は、これがなされないうちは「戦後は終わらないし、またそれまでは終わらせてはいけない」(226頁)と主張している。



『戦艦武蔵の最期』
(1982年)朝日新聞社
渡辺清・
戦艦武蔵1942年乗組員

北緯12度50分、東経122度35分
、、、だから、きっとそうするだろうと思った。
それでこそ「我らの大元帥」だと思った。ところが天皇は謝罪一つするでなく、ぬけぬけと居直ってしまった。
「民草」(たみぐさ)も「赤子」(せきし)もただの言葉、結局時の状況に巧妙に同化して己れの転生を計ることだけに窮々としていたんだ。そのために失われた三百万の犠牲も天皇にとっては所詮一条の煙り、脱ぎ捨てた軍服と一緒に忘れてしまえるようなものだったのだ。
そうして当節では、マス・コミの「御輿」(みこし)にのって、「人間味あふれる」だの、「ご生物学者」だの、「慈悲深い父君」だの、「民主的で和やかな天皇家」(このおどろくべき形容矛盾)だのと、週刊誌の口絵を賑わし、正月ともなれば、高みから帽子をふって愛嬌をふりまいたりしている。
まことに恬然たる実に「寛仁大度な御姿」だ。
もっともこのおどろくべき見事な転身は何も天皇に限ったことでなく、それはそのまま日本人の精神構造を「象徴」したものだと思う。とりわけ戦中、おれたちをペテンにかけたおエラ方の多くは口をぬぐつてふたたび政・財・官で幅をきかせ、やれ「所得倍増」だの「高度成長」だの「経済大国指向」だのと物質主義を謳歌し、そのためにことあるごとに天皇を担ぎまわって利用している始末。
むろん彼らのいいなりになって利用される天皇も天皇だが、戦後このかた「たみぐさ」のおおかたも、そういう天皇にそれほどこだわっていないようだ。
こんなことだと、そのうちにこの国に「社会主義天皇制」などというバカげた制度ができるかも知れない。希望は捨てたくないが、楽観できる根拠は乏しい。
 
何れにしろ、鈴木よ、これが「我らの天皇」だったのだ。
天皇の正体だったのだ。
それとは知らずあんな「大真面目」な遺書を本気で書いた俺たちこそ、いいつらの皮だった。
それを思うと、心じくじゅとして、俺は死んだお前が無念でならぬ。
 鈴木よ、俺はいまも二つだけどうしても諦めきれないことがある。一つはエイゼンシュタインの映画「戦艦ポチョムキン」のことだ。これは一九〇五年、黒海のオデッサ港における水兵の叛乱を扱った事実そのままの記録映画だ。ロシヤの王制ツァー(日本でいえば天皇家)はこの叛乱をきっかけにしてやがて十二年後には崩壊するわけだが、俺がここでいいたいのは、お前と俺が武蔵に乗ったのは一九四二年、つまりポチョムキン号の叛乱から三十七年も経っていながら、同じ戦艦の水兵として大砲をさかさに向けることを知らなかったということだ。馬力引きの牛馬のように毎日追いまわされ殴られながら、それでもなお、そうされるのが「帝国海軍の水兵」として当り前なんだと思いこんで、叛乱の「ハ」の字も考えることがなかった。



渡辺清『戦艦武蔵の最期』朝日新聞社(1982年)
自ら進んで海軍に入隊した渡辺は、戦艦武蔵に乗船し、1944年にレイテ沖海戦を体験することになった。レイテ沖海戦とは、フィリピンに上陸した連合国軍を迎撃するため、日本海軍がおこなった勝算の少ない殴りこみ作戦(捷一号作戦)で生じた戦闘のことであり、ここで不沈艦といわれた戦艦武蔵は多数の魚雷・爆弾を受け沈没した。渡辺は、『戦艦武蔵の最期』で、凄惨を極めた武蔵の艦上の様子を、体験者でなければ書くことはできないリアリティーでもって描いている。

「・・・少し先へいくと、応急員のマークをつけた、まだいかにも子供っぽい面長の少年兵が、何かぶよぶよしたものを引きずりながら、横向きになってもがいていた。
歯をくいしばって振っている顔は、すでに死相をうかせて土色だった。
見ると、腹わたをひきずっているのだった。
腹わたは血につかって彼の足元にもつれた縄のようにひろがっていた。
うす桃色の、妙に水っぽいてらてらした色だった。
少年兵は途方にくれながら、わなわなふるえる両手でそれをかきよせ、もう一度それをさけた下腹の中へ一生懸命押しこめようとしていたのだ。そうすれば、またもと通りになると思ってでもいるように・・・・・・。」(197頁)
「砕かれた頭蓋骨、どろどろの脳液、吹っとんだ首、縄のようにもつれた腹わた、ちぎれた手足、そして床一面の血だ。血は折り重なった死骸の下をあらいながら、入り口のへしゃげた防水扉の隙間から通路がわへぴたぴたと流れ出た。天井やまわりの壁もはねた血でずっくり濡れ、ところどころ肉片が平たくはりついていて、そこからも血の滴りが雨だれのように垂れていた。」(160-161頁)
こうした記述をとおして渡辺が伝えようとしているのは、
「その死は一様に醜く無残だった」(205頁)ということである。
戦場における死は「『勇ましい』ものでもなかった。
『立派なもの』でもなかった。
『美しい』ものでもなかった。
みんな踏みつぶされたボロ布か虫けらのように死んでいった」のであり、「おれはそれをこの眼で見たのだ」(同)。渡辺は、「一様に醜く無残だった死」を、「ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさを、哀しさを、そして空しさ」(266頁)を人々に伝えなければならないと思うようになる。死んでいった者の悲痛な叫びを、誰かがかわって伝えなければならない、それこそが残された者の義務なのだ。
そこで書かれたのが『戦艦武蔵の最期』だったのである。

かれらが利害を持たない他人や他の民族の人々に冷淡・残虐であった事実(ときに父母兄弟にさえそうであったろう)は勿論、<一様に醜く無残だった死>も、<ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさ、哀しさ、そして空しさ>も存在しない。
靖国神社は、『戦艦武蔵の最期』で描かれたこうしたリアリティーを排除したうえに成り立っているのである。



2002年10月17日
昭和天皇とマ元帥の初会見記録公表 「元帥感動」の会話なし
 ◇戦争責任言及なし、昭和天皇「極力避ケタイ考デ」 天皇の自らの戦争責任発言はなかった−−
。57年間の封印を解かれ、17日外務省が公表した昭和天皇とGHQ最高司令官マッカーサーとの最初の会見の公式記録。
昭和天皇の人間性を表すエピソードとしてこれまでしばしば引用されていた
「私の身はどうなってもいい」などの会話は記述されていなかった。



若者たちの命を虫けらのように消費する無責任体系に
全共闘は正面から闘いを挑んで行った。



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