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小説『曇り日』堀田善衞(1955年11月)


「・・・・八月十五日、百度に近い暑さのなかで、天皇の放送を聞いた。ガアガアザアザア雑音が入って、よく聞きとれなかった。が、負けたとも降伏したとも、ひとことも言わないのを、おれは不審に思った。時局ヲ収拾セムト欲シ……共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ、それはそうでもあるだろう。が、そのとき生まれてはじめて、おれは、なんだか図々しいような、ひどいことばをつかえば、盗人たけだけしいようなものだな、と思った。そしておれは、……いわゆる大東亜共栄圏に山といる筈の、日本側に協力した人々に対して、天皇は何と挨拶をするのか、とそればかり気にして耳をそばだてた。おれには元来、自分のことは棚にあげて、他人〔ひと〕のことばかり気にするという、面白からぬ癖がある。けれども、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス、それっきりか、それっきりだった。・・・何という奴だ、何という挨拶だ、お前のいうことはそれっきりか、嫌味な二重否定で、それで事は済むと思っているのか。そのほかは、……おれが、おれが、おれの忠良なる臣民が、おれだけが可愛い、というだけではないか。何という野郎だ、お前は、とおれが思った。・・・・」
『曇り日』より。

昭和天皇は東京裁判の訴追を免れるためには形振りをかまわなかった。

「・・・・国体護持のためにアメリカとは何も交渉せず、、結果、敗戦となるまでの間に特攻隊とか空襲、原爆で日本人は相当死んでいる。それは全部、国体護持ーつまり裕仁を天皇の座に置くということのためのみ、、それは天皇制ヒエラルキーに入っている上流階級がね、天皇制がなくなったら自分たちの権益をすべて失っちゃうわけだからね、位から財産からすべて。、、上流階級としては国体護持が第一だということで終戦を延ばしに延ばしていたんですけど、結局、そのために何十万という人間が死んで行ったわけですよ。、、(昭和天皇は)第一級の戦犯です、それは誰が見たってそうであってね。、、絶対に許しがたいんですね。」
(『昭和の劇』P486笠原和夫・荒井晴彦対談より。)


1947年9月、合衆国対日政治顧問W・J・シーボルトからマーシャル国務長官あてに、いわゆる「天皇メッセージ」が送付され、27年間の長期にわたる異民族支配の端緒になった。
それによると、「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の
天皇が希望している」ことや天皇が「沖縄(及び必要とされる他の島)に対する軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借35年(ないし50年あるいはそれ以上)を続けるべきだと述べている。そしてその後、大統領を含む米高官が相次いで「沖縄の無期限保有」を強調している。
1949年5月6日、トルーマン大統領は「合衆国の対日政策に関する勧告」を了承し、沖縄の無期限保有を決定、同年7月1日には米議会で、沖縄の軍事施設費5,000万ドルが計上され、10月にはコリンズ米陸軍参謀総長が来日、「沖縄の無期限保有、在日米軍の長期滞在」を言明。そして、翌50年3月から米軍基地建設が開始され、朝鮮戦争を経て、長期計画に基づく本格的な基地建設が始まった。

憲法9条と非武装中立が日本の安全保障にもっとも有効だと主張するマッカーサーに対し、天皇は講和後も基地の存続と米軍の駐留を求めた。驚くべきことに天皇は自ら沖縄については長期貸与というかたちでの占領の継続を求めた。一族の安寧のために沖縄を売り飛ばしたのである。

戦前、戦中、終戦、戦後、
この国から、
腐乱は遂に途切れることはなかったのだ。




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