1968年、
全共闘が挑んだ軍事財閥
 

1960年代日本の大学は既に
侵略・殺人強盗戦争遂行の頭脳提供拠点にされていた。

1967-5-19朝日新聞


1966年9月に日本物理学会が主催して開催した第8回半導体国際会議に,米国陸軍極東研究開発局から米軍資金8,000ドルが秘かに投入されていたことが翌年5月に明るみに出た。

1967年9月9日の日本物理学会臨時総会で山本義隆をはじめ小出昭一郎水戸巌槌田敦若い物理学徒達厳しい理事会批判を行った。
その結果、総会は「日本物理学会は今後内外を問わず、一切の
軍隊からの援助、その他一切の協力関係をもたない」(賛成1927、反対777、棄権639、無効57)を決議した。
それは、日本科学界が歴史に刻んだ不滅の決意であった。
この決議は、その後1995年までの28年間にわたって日本物理学会総会のプログラム第1ページに掲げられた。


1950年代頃から急激に大学の中に軍部が侵入してきた。
巨額な軍事費で大学が「侵略・殺戮」の下働きにされて行ったのだ。


第061回国会 衆議院本会議 第64号
1969年(昭和四十四年)七月二十四日(木曜日)

沖繩における毒ガス事件に関する緊急質問
  (楢崎弥之助君提出)
・・・・・・・なお、ウ・タント提案では、催涙性ガスの死亡例まで引用して、禁止には催涙ガスも含めるべきであることを特に強調しておりますが、現に、警察機動隊、自衛隊で保有し、使用しているCN、クロルアセトフェノン、あるいはCNS、クロルアセトフェノン液については、ウ・タント提案との関連においてどう考えておられるのか、この際特にお伺いしておきたいと思います。
この点については、ウ・タント報告の執筆者の一人であり、今度ジュネーブ軍縮委員会の日本代表顧問となられました川喜多教授も、CNは明らかに化学兵器であり、当然禁止の対象にすべきであると主張されておる事実を、この際つけ加えておきたいと存じます。・・・・・・


・・・・・・次に、CB兵器が日本にないという保証はどこにもないのであります。
現に神奈川県相模原市には、有名な米陸軍医療本部第四百六部隊医学研究所があって、しばしば四百六細菌戦部隊の名でマスコミの中にも登場しているところであります。

この
四百六部隊と関連して注目しなければならないのが、同部隊研究所とキャンプ座間にある米陸軍極東研究開発局とが、日本全国の大学や研究機関と黒い関係にあるという事実であります。
さらに、埼玉県朝霞基地にはアメリカ陸軍技術本部化学課と称する研究施設が置かれております。
この施設の原名がUSアーミー・ケミカル・テクニカル・リサーチ、すなわち、アメリカ陸軍化学戦部隊技術研究所となっているところから見ましても、これがアメリカの化学戦、細菌戦準備の本拠であるフォートデトリックの研究所、つまりアメリカ陸軍化学戦部隊生物戦研究所と並ぶ位置にあるものであり、おそらく四百六部隊以上に、より直接的に実戦に参加しているものと考えられるのであります。
これら日本国内における米軍のCBR研究機関とCBR部隊について、総理はどのようなお考えを持っておられるか、この点もお伺いしておきたいと存じます。・・・・・・・・・・・

○議長(松田竹千代君) 楢崎君、申し合わせの時間が参りました。簡単に願います。

○楢崎弥之助君(続) 日本自体がきれいな身になってこそ、初めて説得力があるという点をつけ加えまして、質問を終わる次第であります。(拍手)
    〔内閣総理大臣佐藤榮作君登壇〕
○内閣総理大臣(佐藤榮作君) 楢崎君にお答えいたします。
・・・・・・・・・・・



「キャンプ座間にある米陸軍極東研究開発局とが、日本全国の大学や研究機関と黒い関係にあるという事実

「・・・・・学術機関の多くの部分が軍事省と結びつけられるようになった・・・・・・」


1969年11月

「私の考えること」ノーム・チョムスキー教授(インタビュアー小田実)
、、、、アメリカですでに破産に瀕しているその同じ体制を、日本はまた作ろうとしている。

これは恐るべき問題だ。
日本の財界は軍事力を発展させ,それとのつながりを深めようと圧力を増している。
(アメリカの)学者たちは、今、日本の防衛産業とアメリカのそれとの結びつきを研究している。
防衛産業における特許の相互供与、生産管理の問題その他についてだが、この結びつきは深まる一方で、それを推進させようとする圧力が日本の産業のある種の部門に生じている。
この体制が現在のアメリカのように社会の骨がらみになってしまう段階に達する直前の今(1969年)、日本の人たちは批判の声を大きく上げるべきだ。


「、、、、それを推進させようとする圧力が日本の産業のある種の部門に生じている。、、、」


1960年代、侵略・殺戮犯罪の共犯者にされた学生たちは絶対拒否の行動に立ち上がった。


『The military-industrial complex』1970,by Sidney Lens・小原敬士訳 より1部を以下引用。

・・・・・・陸軍化学センターは、陸軍の毒ガス計画に協力している十一大学を列挙している。そのなかにはカリフォルニア大学(ロスアンゼルス〉医学部、ベイラー大学、テキサス大学、スタンフォード研究所コーネル航空研究所のような名声の高い学校がふくまれている。陸軍生物研究所は、致死性細菌の実験に従事している機関として、ジョンズホプキンス大学、メリランド大学、ミネソタ大学、エール大学、イリノイ工科大学をふくむ八大学をあげている。

陸軍ダグウエイ実験場は、一九六八年に神経ガスを散布していた航空機が目標を誤って六〇〇〇頭の羊を殺したところだが、イリノイ工科大学(研究所)、ユタ大学、ユタ州立大学、「西部のペンタゴン」として知られているスタンフォード研究所から有能な人材を集めている。

空軍は、コーネル大学、イリノイエ科大学、フロリダ大学から化学・生物兵器のための専門家の補充をおこなっており、海軍はバークレーのカリフォルニア大学から優秀な学者を招いている。このリストは強い印象を与えるが、まだ完全でない。シーモア・ハーシュは一九六七年のこの分野におけるペンタゴンの契約業者の記録を発表したが、それには五二の大学がふくまれており、これはこの国の高等教育機関の四〇について一校という割合になっている。

 大学社会がガス・細菌戦争の開発において示した共犯関係は、学術機関と軍部とのいっそう広い結びつきの象徴となっている。それは、大量殺戟の準備をすることがわれわれを大量の死から救うことになるといった怪しげな理論にもとづいて、ますます多くのエネルギーを、生命を目指す研究から死を目指す研究の方に奪いとるアルマゲドン(修羅場)にむかってのおそるべき進行の一部分である。

人聞が知っているもっとも破壊力が大きい兵器は水素爆弾であるということが一般に考えられている。しかし一九六九年はじめに陸軍が議員に配った秘密報告書は、アメリカが貯蔵している神経ガスは、地球上の三四億の人口を何度でも殺すことができることを明らかにした。ある陸軍省の役人が示した推測によると、地球の総人口の三〇倍にあたる一〇〇〇億人以上の人口を殺すのに十分なガスが貯蔵されているという。

ニクソン大統領は化学・生物兵器(CBW)の使用を部分的に削減しているけれども、アメリカの連合通信社(AP)は、一九六〇年以来、この国はおそるべきガスと細菌の開発に二五億ドルも費やしたことや、ベトナムで使用されている「おだやかな」CSから、無臭、無味、目に見えないもので、数秒のうちに人間を殺すことのできるGA、GB、X神経ガスにいたるまでの毒性化学兵器の実験と開発に、およそ五〇〇〇人の技術者や科学者が従事していることを報じている。これらの一部のものは、すぐに使用できる状態で、沖縄、西ドイツ、その他一、二の場所に貯蔵されている。
 生物兵器の殺傷能力は化学兵器のそれよりは推定することがむずかしい。というのは、細菌は数日間以上貯蔵すると効力がなくなってしまうからである。しかしながら、ペンタゴンはこうしたおそるべき細菌をアーカンソー州パイン・ブラフに生かしたまま保存しており、そして非常時には、それらのものをわずか数時聞のうちに大量につくり出すことができるといわれている。その能力がどのようなものであるか、またどれほど多くの人命が脅やかされているのかは、もちろん軍事上の機密になっている。秘密でないのは、−わが国の大学は懸命にそれをかくそうとしているけれどもーこれらの驚くべき兵器の研究開発にわれわれの最良の大学が果たしている役割である。このような活動がなかったならば、化学・生物兵器は、他の多くの恐怖の兵器と同じように、現在のような高度に「洗練された」水準と碗曲に呼ばれているようなところまでは発展することができなかったであろう。

・・・・・第二次世界大戦中には、兵器の面で質的な変化が生じ、またそれとともに軍部と大学教授との関係についても質的な変化がおこった。原子爆弾を開発したマンハッタン計画はこの関係の原型であった。その計画は、その最盛期には数千人の科学者を雇用していた。かれらの大部分は最終的な製品が何であるかを知らずに、専門化された基礎作業に従事していた。核エネルギーの研究と電子工学が戦争手段に利用されるようになるとともに、学術機関の多くの部分が軍事省と結びつけられるようになったのである。
 シカゴ大学は原子爆弾の製作につながる最初の核分裂連鎖反応の実験がおこなわれた場所となった。マサチユ−セッツ工科大学は放射能研究所でレーダーを開発するという奇蹟をなしとげた。ジョンズホプキンス大学は自動的近接電波信管の専門家となった。カリフォルニア大学は原子爆弾−そして後には水素爆弾の開発作業をおこなった。


1961年1月、
侵略ブルジョア総本山の大統領アイゼンハワーでさえ辞任に際してテレビ放送を通じて焦慮の告白をせざるを得なかった。

時は未だ1961年であったのに、である。

アイク辞任演説・産軍複合体

アイゼンハワーはその演説の本論に入る前に米国民は長期の闘争を覚悟しなければならないと警告を行ない、次いで複雑で困難な問題と取り組むに当たり冷静な態度を失ってはならないと述べた。
さらに国内においても、国外においても、問題の困難から挫折が生じ、挫折の結果過激な措置による解決を求める声が起って来るかもしれない、と次のように述べた。

 今後も危機は相次いで起こるだろう。これらの危機が国内で生じたものであっても、国外で生じたものであっても、またその規模の大小に拘わらず、なにか思い切った、強硬な措置によって問題を一挙に解決できるのではないかという誘惑が絶えず起こって来るものである。わが国の民主主義に対する新しい脅威が起って来るであろう。
私はここで、私の在任中に起って来た現象で、祖国がいまだかつて直面したこと豊い重大な脅威について一言したい。
 
第二次大戦まで米国には軍需産業というものはなかった。鋤(クワ)を作っていたアメリカ人は時間的な余裕があったために必要に応じて剣を作ることもできたからである。しかし、いまや、われわれは国防を一時的な緊急措置だけで間に合わせるというわけには行かなくなった。われわれは巨大な規模の恒久的な軍需産業を持たざるを得なくなったのである。この外に、三百五十万人の男女が直接国防に関係した職業についている。
われわれは年々、米国のあらゆる企業の純益額以上の金を軍事費に投じている。
 巨大な軍事組織と大軍需産業の結合体という現象はいままでわが国にはなかった新しい現象である。
連邦政府のあらゆる部門、あらゆる州議会、米国のあらゆる都市で、この結合体は、経済的に、政治的に、いな精神的にも、強力な影響力を発揮している。われわれはこのような事態が必要であることは認める。
しかし、その重大な意義ーわれわれの勤労、資源、生活、さらに米国社会の構造そのものまでがこの間題と関係を持っているということーを看過してはならない。
 われわれは、政府部内で行なわれる会議で、軍産複合体が意識的にまたは、無意識的に不当な勢力を獲得しょうとすることに対して警戒しなければならない。不当な勢力が猛烈に台頭して来る可能性は現実に存在しており、今後も変らないだろう。
 われわれはこの結合体の勢力が米国の自由や、民主主義的な政治過程を破綻させるような事態をもたらしてはならない。われわれは何事も止むを得ないこととして放置してはならない。敏感で、分別のある市民のみが巨大な軍産複合体と平和的な手段、目標を適切に調和させ、安全と自由を守ることができるのである。

アイゼンハワー前大統領は上のような言葉で問題を具体的に提示し、さらに、もう一つの警告を行なった。

 技術革命の結果、国家の生存のために複雑で高価な研究が不可欠のものとなり、そのため、自由な思想と科学的発見の源泉として歴史的な役割を果して来た大学にも研究の進め方に一つの革命がもたらされた。それは研究に莫大な金が必要となったという理由もあって、連邦政府との契約によって知的探究心を満たすという事態が生じて来たということである。私は学者が政府に雇用され、その結果、政府に統制されるという事態を危惧すると共に、科学に依存することから公共のための政策が特権的な表の科学者、技術者によって支配されるという事態をも恐れるものである。、、、、
『The Warfare State』 by Fred J. Cook笹川正博訳より

On 17th January, 1961,
Dwight Eisenhower gave his Farewell Address to the nation.

“Until the latest of our world conflicts, the United States had no armaments industry. American makers of plowshares could, with time and as required, make swords as well. But now we can no longer risk emergency improvisation of national defense; we have been compelled to create a permanent armaments industry of vast proportions. Added to this, three and a half million men and women are directly engaged in the defense establishment. We annually spend on military security more than the net income of all United States corporations.

This conjunction of an immense military establishment and a large arms industry is new in the American experience. The total influence - economic, political, even spiritual - is felt in every city, every State house, every office of the Federal government. We recognize the imperative need for this development. Yet we must not fail to comprehend its grave implications. Our toil, resources and livelihood are all involved; so is the very structure of our society.

In the councils of government, we must guard against the acquisition of unwarranted influence, whether sought or unsought, by the military-industrial complex. The potential for the disastrous rise of misplaced power exists and will persist.

We must never let the weight of this combination endanger our liberties or democratic processes. We should take nothing for granted. Only an alert and knowledgeable citizenry can compel the proper meshing of the huge industrial and military machinery of defense with our peaceful methods and goals, so that security and liberty may prosper together.”

日本軍需産業再編。

防衛懇話会
 第三次防衛計画の作業がすすめられはじめた一九六六年九月三〇日、財界は、石坂泰三、木川田一隆、諸井貫一、足立正の四人が発起人となり、経団連、同友会、日商、日経連の経済四団体を結集して「防衛懇話会」を組織した。発表されたおもな事業は@総理大臣や訪日外国軍事関係要人をまねき軍事問題についての懇話会をひらく、A自衛隊の見学、激励、B軍事問題についての研究会、講演会をひらき、懸賞論文を募集する、C自衛隊のおこなう各種行事、広報活動、施策への協力などがあげられている。この「懇話会」 を発足させた財界指導部のねらいは、いよいよ大がかりに兵器生産にのりだすため、独占資本の総力を結集することにあるが、同時に自衛隊へのコントロールを強化し、人民弾圧部隊として育成しようとの決意をもあきらかにしたものである。「防衛懇話会」は、一九六六年一〇月二六日、東京、丸ノ内工業クラブ第一回総会をひらき、軍事問超で結集した日本独占資本の決意をあきらかにしたデモンストレーションを内外にたいしておこなったが、この席上、松野防衛庁長官はつぎのような「報告」をおこない、日本独占資本の要求にこたえた。@現在自衛隊の装備している武器の国産化率はわずか二五%にすぎず、しかもアメリカ兵器にくらべ性能がおとるので、政府はこんご防衛産業の育成につとめる、A第二次防の予算規模は一兆二〇〇〇億円であったが、第三次防の予算は二兆数千億にしたい、B日本は一見平和がたもたれているようだが、ことしにはいってから自衛隊の緊急発進が二〇〇回もおこなわれた、自衛隊装備の近代化と国防力の増強に努力したい。
 なお「防衛懇話会」の役員は、つぎのとおりである。
会 長
石坂 泰三(経団連会長)
副会長
植村甲午郎(経団連副会長)
木川田一隆(電機事業連合会会長)
中島慶次(王子製紙社長)
永野重雄(富士製鉄社長)
諸井貫一(日経連代表常任理事)
顧 問
足立正(日商会頭)
石川一郎(原子力船事業団理事長)
菅 礼之助(東電相談役)
安川第五郎(安川電機会長)
向井 忠晴 (三井長老)
 そして理事には、財界指導部のほとんど全員と防衛生産委員会、兵器工業会、航空工業会のメンバーがずらりと名をつらねている。
一九六七年三月一三日の国防会議は、六七年度から一九七一年度にいたる第三次防衛力整備計画の経費を決定した。この三次防の基本方針は、「日米安保体制を基調とし、侵略に対する抑止力として有効な防衛力を整備」するというものであるが、さらに中国の「核」に対応し、ホークおよびナイキ・ハーキュリーズなどの核ミサイル (非核弾頭専用とことわっているが) を増強、装備することをきめている。そして三次防予算は二兆三四〇〇億円、上下に二五〇億円の幅をみこみ、とくにはじめて「アメリカからの援助をおりこまない」ことを強調している。対米従属のもとで軍国主義・帝国主義復活を追求してきた日本の国家独占資本主義が、いよいよ本格的に兵器産業にとりくみだした姿が、ここにはっきりとみられるのである。
『支配者たち』大野達三著


軍事産業を絶対に許してはならない理由は自明である。
命令されれば銃の引き鉄を引くようなおぞましい若者を生み出し続けなければ立ち行かない産業だからだ。 命令されれば銃の引き鉄を引くような人間が存在する世界では一切の文化は不毛である。 科学も芸術もあらゆる学問も、希望も幸福も笑いも眠りも、何もない暗黒の世界にのみ、銃の引き鉄に平気で手を掛けるぞっとするような人間が存在するのだ。そのような人間とそのような世界を生み出し続ける産業には誰もが自己の存在をかけて立ち向かわなければいけない。
(Jomn D'acgeur 1967)


2003年






あの「昭和の戦争の時代」、多くの学生たちが支配層の財産(国体)を護持するために狩り出され侵略強盗殺人の犯罪兵士に作り変えられて行った。1968年、全共闘はかっての若者たちの無念と怒りを引き継ぎ催涙弾と警棒が荒れ狂う路上に踏み出して行く。

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