奴隷使いの教育機関・平成帝国大学
 


 一八八六年(明治19年)に帝国大学令が出された。
帝国学令で民間の五大法律学校が法制上も帝国大学総長の監督下におかれたのは偶然ではない。
 政府がこのように私学を圧迫し、統制し、とくに帝大の下に権力的に格付けし、私学には大学の名称さえゆるさず、その卒業生に何らの公的資格も称号もみとめなかったのは、第一に学問においても「官」がすべてであるという体制をつくり、官学の権威を高めるとともに、支配層に入ってくる人材養成の過程における、天皇制官僚の主導性を確保しょうとしたものであり、第二に人民の自由な学問・思想の成長を抑圧し、天皇制の専制支配の思想的基礎を固めようとするものであった。この後の点について、この翌年自由民権運動が復活し最後の火花を散らしたとき、民権派を代表して板垣退助が政府を弾劾した文書は、みごとに政府の意図を暴露している。
いわく、
「我有司は、天下人民をして不覇独立の志気を長じ思想の発達するをうれい、専ら官立の学校を興隆して民間の教育を阻喪せしめ、劃一の学制をしき、人の心智を拘束し彼の不覇の気・独立の志を消殺せんとするに至りては、其旨深くして其罪もまた大なりというべし。それ、国は各異の才能を集め各殊の知徳を合するを以て、よく文化の美を呈するを得るものとす。けだし人材の天賦は各異各殊にして、各々其長ずる所を一様にせざるものなれば、真に人材の天賦を成長せんと欲するものは、之を一器に入るべからざるや明らかなり。
 且つ政府本然の職務なるものについて之をいえば、人間教育の事の如きは固より之に干興すべきものにあらざるなり。政府にして敢て之に干渉せんとするか、これ人性の心智発達の自由を奪うにひとしければ、則ち其罪たる彰々として掩うべからざるものなり。(中略)今や我国有司は、かの本然の理をおかしてこれ(教育統制・干渉)を断行して顧みざる所以のものは、思うに十九世紀の気運に抵抗して専制の基礎を固めんと欲するには、寧ろ国家の害をのこすも眼前人智の発達を妨げんとするに外ならず、あに本然の理を思考するいとまあらんや。即ち財を散じ思を労し、自ら苦んで以て此の如きの過を故造せざるを得ざるなり。これ教育上に於て当路有司が威嚇・籠絡の手段を見る所以なり。」
 八六年の帝国大学令におけるような、露骨すぎるほどの帝大の特権、私学の帝大従属は、一八九三 (明治二六) 年の帝国大学令改正の前後に、法文上からは姿を消していった。しかし、その実質は依然として帝国大学の権威とともに生き残ったし、現在もなおつづいている。そのことは、私立大学の教員に旧国立大学、とりわけ旧帝大の教授らが非常勤講師となり、あるいは停年退官した教授が私大の教授としてふんぞりかえったりしていることにもあらわれているし、とりわけ日本の政界・官界・財界・学界から芸術界にいたるまで、あらゆる分野の支配的地位にまたがる「東大閥」の形成は、このことの集中的な表現である。
『東大闘争の論理』井上清