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1968年、全共闘は日本史上かってない壮大な闘いを開始した


1968・1・17エンプラ阻止闘争
佐世保平瀬橋

明治という愚劣な時代が、新たな、そして巧妙な奴隷の世紀を用意した。
日本国民は大政奉還・明治維新という茶番劇の果てに封建社会・徳川幕府というの奴隷から明治・天皇制というの奴隷に首輪を替えられた。日本の近代とは首輪の管理の近代化に他ならなかった。首輪すら徹底的に管理された国民が1945年の8月、2000万のアジアの民と310万の自国民を虫けらのように殺した侵略強盗の殺人犯・殺人共犯となったのも当然といえば当然であった。

欲に目がくらんだ無知な一族を利用し現人神として祀り上げ、戦争を崇高な理念の遂行と主張しながら、支配階級は、もっぱら私利私欲を追求した。政財界、軍部の上層部は、戦闘によって何ら損失を蒙らず、敗戦後責任を取ることもなかった。玉音放送を聴いて自決したのは、ごく一部の職業軍人のみである。全体主義から民主主義への移行において、本音と建前を使い分け、責任の所在を曖昧にする体制は、温存されたままであった。

 日本国民の大多数は、大勢に順応し、自らを客観視する機会を持とうとしなかった。無責任の体系は、単なる押し付けではなく、庶民によって支えられるものでもあった。彼らにとって、過去は速やかに忘れ去られるものでしかなく、戦後の出発も痛みを伴うことはなかった。(『民主と愛国』 )

全共闘はその鉄の腐食に、
日本千年の歴史上初めて真っ向から闘いを挑んだ。


日本社会の根深い病理と奴隷制については、例えば元日本皇軍兵士渡辺清『戦艦武蔵の最期』朝日新聞社(1982年)は次のように透視している。
渡辺は、一九二六年静岡県の農家に生まれる。高等小学校卒業後、海兵団に入り、少年兵としてミッドウェー、珊瑚海、ソロモン、マリアナ、レイテ沖海戦に参加する。レイテ沖海戦では乗艦していた戦艦武蔵が沈没するが、奇跡的に救助される。大東亜戦争の大義を純粋に信じ、命を惜しまず服務した渡辺少年にとって、突然の敗戦は、信じがたいことであった。
呆然とした彼の思いは、戦いに殉じた同年兵の無念とつながり、やがて天皇をはじめとして誰一人謝罪しようとしない指導部への憤りとなっていく。
渡辺は、敗戦後の現実に背を向け、一人戦争の意味を問い続ける。

彼は河上肇や山川均の書物などに触れながら独力で思考を続け、この戦争が資本家の利益を満たすための侵略戦争であったこと、天皇を支持した自らも戦争責任を免れないこと、侵略されたアジアの民への想像力が必要なこと、アメリカの占領政策が政治判断を優先させた妥協の産物にすぎないこと、といった真実を次々と探り当てていくことである。敗戦に際して、日本人が反省すべきであった問題のおおよそは、そこに尽くされている。渡辺の態度は、再出発を図る時の一つの模範であった。

渡辺清の死の床で書かれた 『私の天皇観』 辺境社(1981年)の「あとがき」の一部である。
 「戦後三十六年を経たが(1981年)、この国には本当に戦後といって誇れるだけの戦後はなかったように私は思う。戦争も結局われわれ国民自身の手で収拾することが出来ず、天皇をはじめ戦争を仕組んだ側が、最後、苦しまぎれにあの手この手で収拾する様をただ手をこまねいて見ていたに過ぎない。……それが結局戦争責任の所在を曖昧にし、戦争から戦後に持ち越されたさまざまな問題をほとんど手つかずのままなしくずしにしてしまった。
 「右旋回などというのんびりしたものでなく、時代は戦前志向の道を手放しで突っ走り、もうとり返しのつかないところまで追いつめられている。われわれは天皇について、戦争についてもっと正面から問題にしなければならない。…石が坂を転げ出したら止まらない。そうなる前に知恵を出しあって転落を食い止めなければならない」(346〜347頁)

1968年、
全共闘は元侵略皇軍兵士渡辺清が辿りついたまさにその地点から反撃を開始した。奴隷の再生産が永続する鉄壁のシステムに真っ向から闘いを挑んだのだ。




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