「侵略戦争遂行財閥の頂点に位置した神聖財閥」
 
皇室財産の急増

 「・・・明治十四年の皇室料地わずか六三四町歩は、九年後の明治二十三年には三六五万四千町歩に達していた。これはじつに六千倍で、その年の民有林野総面積八三八万五千町歩の半分に近い。

 さらに、土地以外の株券と貨幣による皇室財産は、十五年の一七一万余円が、十七年十二月には日本銀行の株式三五〇万円をくみいれ、さらに明治二十年に日本郵船の株式二六〇万円を収めて、同年末には小計七八八万五千余円の巨額にのぼっていた。
 いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりである。・・・」
「日本の歴史21」より

(当時は、米一升が六、七銭。大まかに計算すれば1円は 現在の1万円程度。)

□天皇家の銀行関係の主な持株
 日本銀行(20万8000株)
 横浜正金銀行(20万9318株)
 日本興業銀行(4万5450株)
 台湾銀行(3万264株)
 東洋拓殖会社(5万株)
 帝国銀行(2万9110株)

□その他の諸会社株の主なもの
 王子製紙会社(6万608株)
 関東電業会社(3万4749株)
 南満州鉄道会社(8万43175株)
 台湾製糖会社(3万9600株)

□皇室所有の土地の主なもの
 森林(318万3287エーカー)
 宮城および御所(2256エーカー)
 農地(9万7637エーカー)
 建物敷地(559エーカー)
 その他(3万502エーカー)

アジアへの侵略が深まれば深まるほど儲かる銀行や会社の大株主だったのである。

 そして国民や農民の資産が 皇室に集まる仕組みが出来上がった。
それと同時に軍人勅語・教育勅語等が準備されていくのである。


大正、昭和にその1千万弱の資産が終戦時37億円に膨れ上がっていた。
国体とは実はこのゼニであった。
戦場で散って行く若者たちを盾にして支配層が守ろうとしたものはこの「神聖財閥」を頂点とするゼニの塊だったのである。
1969年の5月13日、超満員となった東大教養学部900番教室で、三島由紀夫は天皇を「ブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。」などと寝言を言って全共闘にコテンパにやっつけられた。

終戦時の皇室財産総額は、総司令部発表で約16億円(美術品、宝石類を含まない)、1946年3月の財産税納付時の財産調査によれば約37億円と評価された。

1887年に横浜正金銀行条例が制定され、特殊銀行として外国為替銀行となった。その後日露戦争に際しては外債募集に努め、日露戦争後は満州における中心的な金融機関となって、支店網を拡げ外国との貿易・金融の面で巨額の利益を上げた。

「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは、日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
『米従軍記者が見た昭和天皇』ポール・マニングHIROHITO : the ar years(Manning, Paul)マルジュ社 2005

(昭和天皇がたいへんなゴルフ好きであったというのは、いまではあまり知られていない。初めてクラブを握ったのは、皇太子時代の大正6年だそうだから、日本のゴルファーとしてはかなり早く、非常にモダンな方だったことが分かる。すすめたのは、西園寺公望の女婿の西園寺八郎と、横浜正金銀行重役の森村市左衛門で、彼らは大正3年に駒沢に創設された東京ゴルフ倶楽部の会員だった。ゴルフクラブも彼らがニューヨークに注文し、スラゼンジャー製のを3組献上したらしい。『昭和天皇のゴルフを想う』海老沢泰久2004・7・24東洋経済)

第二代慶應義塾塾長や横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉の息子は戦後、1949年(昭和24年)皇太子明仁(現天皇)の教育掛となった小泉信三である。小泉は『共産主義批判の常識』などを著し戦後講和問題でもソ連とは与せず単独講和論を主張した。

天皇家が日清戦争で味をしめたのは有名な話である。この侵略強盗戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円。何故かこのうちの二千万円が皇室の財宝となった。
次の大戦のさなか参謀本部の将軍達から逐一詳細な戦況報告を受け一喜一憂しながら戦争にのめり込んで行く天皇の姿は、さながらイラク侵略の戦況に眠られぬ朝を迎える石油資本の株主たちと重なる。
うつくしいやまとのくにの「文化的概念としての天皇」(=by三島由紀夫)の神々しい正体である。


1945(S20)11-20(水)の新聞記事




一家族で15億、、、
現金など3億3千万、、、、
昭和20年11月と言えば国民は飢餓状態、
公務員月給65円、米10キロ6円の時代。



日本経済の頂点に立っていた神聖財閥

「これまでの皇室財産は多分に財閥的なものがあり、、、、
皇室財産の凍結により、
将来日本経済或いは産業に対する皇室の関係は希薄となり、
生産手段の民主化が促進されるだろう、、、」
クレーマー経済科学局長(連合軍司令部)

今も日本経済の不可視の頂点には天皇制のタガが嵌められている。
黒い右翼の街宣車が平成財閥の用心棒として機能していることは
日本経済の周知の事実である。



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