1969年5月13日東大教養学部900番教室 |
、、、私が抱きついてゆくと三島さんは急に体の向きを変えて抱き返してきて小さな声でささやいた。 「しばらくぶりだったね、 会いたかったよ。」 、、、、懸命に三島さんの首から、胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。 、、、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた。 1966年、昭和41年8月27日、熊本、ホテル・キャッスル。 三島由紀夫42歳、福島次郎36歳、中年男が汗まみれで抱き合う昭和武士道のメルクマール。 情交の後、三島は福島次郎に問いかける、 「私にもしいざということがあったら、駆けつけてくれるか」 「はい、行きます!その時には、電話か電報を下さい」、 三島は強く頷く。 福島はだが、間をおいてこう言った。 「行くのは、行きます。しかし……その、いざということが、どういう内容のいざなのか、はっきりわかってから行きます」 三島はそのとき、 「風船がはじけたように、急にしぼんでしまったよう」な感じになり、「日本刀を袋に納い、鉢巻をはずし、そこらをごそごそ」「片付けている様子だったが、いつの間にか、バスルームへ姿を消した。」 『剣と寒紅』福島次郎著 長い時を隔てた42歳と36歳の男同士の複雑で怪奇な恋が終わったのだ。 果たされなかった若き日の恋の復権を賭けて三島が用意した「その時」の道連れは、やがて、36歳の恋人から5人の男子学生に代わるのである。 風間重吉 「秀次郎さん あれから15年 見てやっておくんなさい。 ご恩返しの花道なんですヨ」 「ご一緒ねがいます」 『昭和残侠伝』池部良 、、、、、、、、、、 しかしあと三十分、最後の三十分待たう。 共に起つて義のために共に死ぬのだ。 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。 もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。檄文・三島由紀夫 『禁色』の美青年南悠一のモデルとなった実在の男性(戦後のある時期、三島と同性愛関係にあった)と森田必勝は瓜二つだった。 (『文芸編集者 その跫音』木村徳三著・TBSブリタニカ・1982年刊より) 1968年10月21日「新宿騒乱事件」につながった国際反戦デーの集会で、陸自調査学校(東京都小平市、現・小平学校)が調査学校の副校長で陸将補山本舜勝(きよかつ)(82)の指揮で、三島と「楯の会」会メンバー計数十人が学生らのデモ隊の中に潜入し、組織リーダーがだれかなどを調査する訓練を行っていた。訓練は安保闘争の高まりを受けて、自衛隊の治安出動を想定したもので、調査学校の教育課程は増強され、訓練に参加する三島らの食費などが公費でまかなわれたこともあるという。事件の前年の69年6月に三島に呼び出され、「楯の会」が皇居に突入するという「クーデター計画」を示されるが、山本は反対。同席していた三島シンパの自衛官に「憶病者」とののしられたという。そのころから三島との間に次第に距離ができたという。 防衛庁はこれまで情報員訓練の内容や三島との関係を明らかにしていない。山本は「三島は自衛隊の治安出動を機にクーデターを構想していたようだ。当初はそれに理解を示した自衛隊幹部もいたのではないか」と言う。その上で「決して狂気に走ったのではない。訓練を受ける中で自衛隊への期待を高め、その後に裏切られたと思ったはずだ」と話している。 山本は三島との交流をまとめた『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社)2001 年 5 月 25 日 朝日 三島由紀夫は日本軍需利権の走狗として道化の役を仮託されてその痛々しい姿を全共闘の前に現す。 1969年の5月13日、超満員となった東大教養学部900番教室で、三島由紀夫と全共闘の討論会が開催された。 1969年(昭和44年)『流動』12月号で三島は林房雄を相手に青年の裏切りと、青年への絶望をこう語っている。 「、、自分で苦い目に会ってみなければわからない。青年というのは一番純真じゃないかもしれませんね。」 1970年(昭和45年)11月25日、東京、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で三島由紀夫は若い男を道連れに心中した。 |
2001−5−25 |
1969年の5月13日、超満員となった東大教養学部900番教室で、三島由紀夫と全共闘の討論会が開催された。 |
Copyright(C) 2001
All Rights No Reserved.