「三島事件クルクルパア説」


1970年昭和45年11月14日午後、
三島由紀夫、森田必勝、小川正洋、小賀正義、古賀浩靖の5人は六本木のサウナ・ミスティで会合。
決行の11月25日に檄文と5人で撮影した記念写真をNHKとサンデー毎日の記者に渡す事を話し合う。
TVと週刊誌を祭りの宣伝に利用しようという打ち合わせである。
翌15日、週刊読売の特集に対する電話インタビューで死に方について、「文士でなく、武士のいさぎよい死を!」と答えている。

そしてこの後「三島事件クルクルパア説」を決定付ける三島由紀夫の行動が明らかになっている。
この後三島は横浜の有名な刺青師彫錦こと大和田光明氏に、牡丹と唐獅子を彫ってもらえないかと電話したのである。
ズッコである。

天皇主権、憲法改正をいかに檄文に盛り込み、いかにこの騒動の出し物をTVと週刊誌を使ってチラつかせるかというセコい打ち合わせをした翌日、ヤクザ映画見過ぎの影響モロ出しの行動である。

背中に中華丼もどきの柄を彫って自衛隊に斬り込む高倉健になろうとしたのである。
三島の生涯を詳細に追った『三島由紀夫の生涯』の中で安藤武氏はこの刺青依頼電話を「東映映画の見過ぎか三文役者の行動」と断じ「仮に刺青が完成していたら森田必勝にはどう詫びたら申し開きがつくのか」 「自決後の誹謗中傷は想像を絶したであろう。」と言っている。

完成しなかったのは大和田氏に1週間や10日で完全な刺青は出来ない、と断られたからだ。
ただのオバカである。

三島事件の檄文が「幼なマザコン男の論理」丸出しだった理由は安藤氏が嘆くように刺青が完成していてもいなくても充分にわかろうというものである。
三島のズッコケ心中を未だに「衝撃だった」と大真面目に語る男たちがいる。
右翼だけではなく左翼にもいる。

三島事件、
衝撃は、この出来そこないのコントを魂消(たま)げたという幼稚な男たちの存在のである。
004−1−7
(NET投稿より引用)



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