掛川西高・掛西反戦会議
 



 我々は、街頭闘争を何ら否定するものではなく、むしろ最も高度な政治闘争を担う一部隊へと、我々高校生が成長してゆかなければならないことを絶対任務と考える。
だからこそ、現在、受験体制の中へどっぷりとつかり込んでいる高校生が何によって政治闘争を担う主体へと自らを変革させてゆくのかという問題が立てられてくる。おそらくそれは、自らが具体的な闘争にかかわる中で、自己の主体的な選択のもとに行動し、常に現われてくる限界を一歩一歩のり越えてゆくことによってのみ、可能である。
我々がそうであったように,,。掛西反戦会議の掛川西高生。
(「六〇年代高校生闘争の新たな地平」雑誌『共和国』第2号69・9)


アスパック阻止闘争を闘い、その処分攻撃と闘うなかで69〜70年の高校生運動の一つの頂点をなした掛川西高反戦会議。

1969年6月、アジア太平洋閣僚会議(ASPAC=伊東市川奈)の阻止デモに参加した掛川西高の三年生の謹慎処分をめぐり、「掛西反戦会議」が処分撤回を求める抗議運動を展開した。
全国の高校から多くの支援が寄せられた。
今も、時代を先導する高校生たちの間で語り継がれている掛西反戦会議の先鋭な戦い。

1969年2月
大阪市住吉区の阪南高校・反戦高協30人が反戦デモに加わった生徒の退学取り消しを求め校門をバリケード封鎖。卒業式は延期となった。
 茨木市の茨木高校では深夜からヘルメットの高校生28人が体育館を封鎖。校内放送だけで卒業式を行った。


われわれは自己の安全とより正しい教育をうけるために、目前にある受験というような圧力にいたずらに屈することなく、日常の生活を送っているだろうか。
この答えは 「否」 である。
旭丘平和といわれるような太平ムードの中で、その日常性の中に埋没してしまい、勉強のための勉強、クラブのためのクラブ活動と、その内容さえよく知らず、与えられるがままの活動ばかりではないか。次第に偏向していく社会の中で、その恒久の平和と繁栄を模索し、確立して行くのはわれわれである。日頃の日常性から脱却し、積極的にその目標に向い、活動を行なっていかねばならない。怠惰な感情に押し流されることなく、反戦運動などに自らの存在を追求してこそ、われわれが求める生活が得られるのではないか。
新しい日常性の創造を高校生運動を盛り上げることにより追求していこう。
(「新しい日常性の創造を」愛知県立旭丘高校新聞 68年7月17日号)



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