明治、大正、昭和、平成を跋扈する戦争利権
 

1940年代・天皇制カルト国家の戦意高揚ポスター
勝ちぬくために貯金しろだって、ハァ?

2004年の平成奴隷国家と変わらない

明治、大正、昭和、平成と、いつの時代もこの国で大手を振っているのは軍事利権に繋がるゴロツキどもである。




清沢冽『暗黒日記』
昭和一七年一二月一二日
 右翼やゴロツキの世界だ。
東京の都市は「赤尾敏」(代議士)という反共主義をかかげる無頼漢の演説のビラで一杯であり、新聞は国粋党主(国粋同盟総裁)という笹川良一(代議士)という男の大阪東京間の往来までゴヂ活字でデカデカと書く。
こうした人が時局を指導するのだ。
昭和一九年八月七日
 頭山満に対する批難、その方面の陣営から聞く。
臼く、巨額の金を東条は与えていたとか、日く、その長男秀三は特殊技能者ということで徴兵を逃れているとかいうのである。頭山自身も憂国者顔などできた義理でなく、軍部もおべんちやらをいっているというのである。
ゴロつき万歳の世だ。
笹川良一とかいう国粋同盟の親分は何千万円の財産家だという。 右翼で金のうならぬ男なし。これだから戦争はやめられぬ!
同年九月二一日
 今回の戦争で儲けたものは右翼団で、彼らは支那、内地、どこでも鉱山その他の権利を得て、大金を儲けているそうだ。
彼らは軍人と連絡があるからだ。
その一例として児玉誉士夫という大森区から代議士に立候補した右翼の男 国粋会の何かだ−が今日の『毎日新聞』によると福岡で水鉛鉱山を経営しており写真入りでで紹介している。

当然、右翼と軍=泥棒と人殺しは互いを利用しあっていた。

 日本の大陸進出が経済的にいっても容易に採算のとれるものではないことは、すでに高橋是清などの認識していたところであった。昭和七年、満蒙開拓計画が閣議に提出されたとき、彼は蔵相であつた。この案に消極的な彼のもとに、この立案にかかわつた東大の那須皓、京大の橋本伝左衛門といった農学者が説明にいったときのこと高橋は二人の少壮教授たちに、「諸君は満州へ行ったことがありますか」と問うと、「いや、ございません」という返事が返ってきた。高橋は若い二人をさとすように、「帝国政府が明治以来、北海道にどれだけの金をつぎこんできたか。いまもって北海道の農業は赤字だ。あの金は津軽海峡に投げすてたようなものだ。しかも満州は北海道よりもっと北なのだよ」と言ったという。そして、この案は閣議で否決されてしまったのである。この高橋は二・二六事件の凶弾に倒れる。(軍事利権に利用された2・26のチンピラ青年将校たち、そして彼等に天皇カルト思想を吹き込んだ者にとつて、高橋が邪魔者だったことは明らかである。)

 この時期、軍部、とくに関東軍上層部と結びつき、世論を大陸進出へと誘導していった一群の者たちの果たした犯罪的役割は大きい。この者たちの呼び名は歴史家の間においても確定してはいないであろうが、本間雅晴が紹介したエピソード、近衛の日中和平への模索を 「仕事の種がなくなる」 として阻止すべく、近衛を脅迫した者たちについて用いられた意味での 「浪人組や右翼団」 を採用する。彼等は貧困からの脱却の道を必死に模索する国民の声を利用し軍部に結びつける社会的役割を担った。そして彼等は自らの行動をそのようなものとして正当化してもいたであろう。
 その彼等の主観における意識のありようは、いわゆる親分、侠客風のそれであつて、彼等がまず、利得をうけ、それを彼等の恣意にしたがって、子分となつたものに施す、といったものであつたようである。
この 「右翼」と軍部はたしかに癒着という面をもっていたのではあるが、その軍部にしてなお彼等「右翼」に辟易する面もあつたことを昭和一四年におけるつぎの証言が示す。

  (前略) 参謀次長が内大臣に語った話によると、建川中将が参謀本部に来て、「橋本欣五郎の留守中、日本革新党とかなんとかいふものを預かつてみたが、どうもこの右翼といふ団体ぐらゐ汚い、金でどうにでもなるものはない。初めて知つたが、実にけしからんものだ」と言つて憤慨して、「早く橋本を呼び返して、自分は御免蒙りたい」 と言つてをつたさうだ。『西園寺公と政局』原田熊雄著

彼等の所業については、以後、数々の証言がある。永井荷風『断腸亭日乗』昭和一五年一一月二五日の項には「町の噂」として二・二六事件の民間側犯人の一人が大赦によって出獄した後、熱海で毎夜、土地の芸者一〇余名をあげて大尽遊びをし、帰り際に女中一人に百円づつの祝儀を出したなどという話が見られる。




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