新聞は、中曽根、三島、佐藤コネクションを全く報道しない
 

全共闘と三島由紀夫

全共闘H
三島は自身の考える天皇が非現存であるからこそ、至高の、至禁の美としての天皇が描ける。そもそも究極美は、全てを超越し、捨象したところにできる空間、観念の中でこそ生きる。しかし三島は時間性とか関係性に拘泥するがゆえに逆に関係性に絡め取られ、本来観念の究極としてあるべき美が腐蝕してゆくという過程が生じる。つまりその美に具体的形態や関係性を与えて現実化しようと足掻いたり、観念と名辞を混同したりする曖昧さから、時間や空間に対する超越性が失われ、美は腐ってゆき、また自身のみっともない行動が生まれる。

三島由紀夫
自分の天皇観は儒教的天皇観ではない。日本武尊に象徴されるような人神…人間天皇と統治的天皇、神的天皇と文化的天皇、そうしたダブルイメージを持つ二重構造が天皇の本質である。権威や征服者としての、奔放な強者としての神がかった美しさの純粋持続、それこそが自分の天皇観だ。
天皇はブルジョワなどではなく、日本の民衆の底辺にある観念、日本人の持続したメンタリティ、いわば庶民の超越項である。それをものにしなければ空間を理解できない時間を生きる民衆の心は掴めず、革命はあり得ない。徹底的な論理性は非論理的で非合理的な文化の上でこそ成り立つ。文化的概念としての天皇こそが、それゆえに革命原理、戦闘原理となりうる。

全共闘C
三島の言う民衆とは農耕民族であり、その民衆はもはやいない。三島の天皇観は天皇を自己一体化させたいという欲望であり、それはイマージュと自己の、一種の単なるオナニズムだ。三島は過去の歴史に規定された関係性の中でしか生きられず、日本文化に拘泥し、その幻想の中に喜びを感じている。 それは日本文化や日本人であるということに負けている、ということだ。
自由であることを放棄した、そういう退屈な三島からは何も生まれない。


三島由紀夫は右翼利権体制固めの小道具にはうって付けだった

無責任の権化


2002年10月18日読売新聞
「『戦争責任発言』記載なし
…昭和天皇・マッカーサー元帥会見録」
外務省は17日、1945年(昭和20年)9月27日に行われた昭和天皇と連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の第1回会見の記録を公開した。この歴史的会談の内容については、マッカーサーが自らの回想記(1964年刊行)で触れた例などがあるが、日本政府が公表したのは初めて。封印されてきた戦後日本の出発点が、57年の歳月を経てやっと明らかになった。ただ、マッカーサーの回想記などに記された、天皇が自らの戦争責任に言及する部分はなく、天皇の戦争責任発言が外務省の公式文書で明らかになる可能性はなくなった。
 この会見記録は、昭和天皇に通訳として随行し、ただ1人会談に同席した奥村勝蔵外務省参事官が、会談終了後に作成した。A4用紙9枚に、37分間の会談の模様が記されている。


 、、、三島の死後、私(=Henry Scott Stokes)は独力で全容を発見した。
三島由紀夫は政界上層部に二人の強力な同調者を持っていたことが分かった。一人は、64年から72年までの日本の首相の座にいた佐藤栄作、もう一人は、 三島が死んだ当時の防衛庁長官で、現首相の中曽根康弘である。佐藤は、日本の右派財界から募った資金で楯の会の活動を支援し、中曽根は 富士山麓で三島が私兵を訓練するのに便宜をはかった
(今まで、日本の新聞は、 中曽根、三島、佐藤コネクションについて全く報道していない。このコネクションの 存在は、日本のジャーナリストの間でも広く知られた事実であるのに)。
「三島が日本の右翼とつながっていた真相はおそらく十数年経っても明らかにされないであろう。」
その目的は
「二人の首相をして三島を支持する気にさせたものは、公然と右翼の理想と天皇崇拝という昔からの スローガンを擁護した世代の中で、三島はたった一人のインテリであったことを私は疑わない。」さらに佐藤と中曽根が心から三島を支援する気になった理由は「憲法改正であった。特に第9条の撤廃と米国製でない日本製の再軍備」のためであった。

(参照)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4478940568/qid=975723038/sr=1-1/249-4107822-9981924
1.『三島由紀夫 死と真実』『LOST SAMURAI』 ヘンリー・スコット=ストークス(著), 徳岡 孝夫(翻訳)
2.『三島由紀夫 生と死 』ヘンリー スコット=ストークス(著), 価格(税別): ¥2,000

『三島由紀夫 死と真実』
Henry Scott Stokes・著

周知のとおり、
マザコン右翼を操って隠然たる権力を作り上げた佐藤栄作も中曽根康弘も
日本国民を、「命も財産も黙って差し出す奴隷」としかみていない男だ。
楯の会と三島由紀夫に唯一人、最後まで密着した取材のもとで書き上げたHenry Scott Stokesの説を日本の番犬ジャーナリズムが追跡することは無い。
躁鬱病にかかってハジけた中年の作家が薄汚い政治屋にカモにされた構図が浮上することはありえないだろう。
それが日本という国なのだ。


2001・5・25
70年11月に作家の三島由紀夫が「楯(たて)の会」会員らと東京・市谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入して自決する前に、陸自調査学校(東京都小平市、現・小平学校)が、三島と「楯の会」会員らに情報員としての訓練をしていたことを、元陸自幹部が証言した。クーデター計画も打ち明けられていたという。調査学校は当時、自衛隊の治安出動に備えて大規模デモに潜入して情報収集する実地訓練もしており、それにも三島らは参加していたという。なぞの多い三島事件と自衛隊との関係が改めて論議を呼びそうだ。

 証言したのは調査学校の元副校長で元陸将補山本舜勝(きよかつ)さん(82)。72年まで同学校で「心理情報戦」に対処する情報要員の教育にかかわった。

 山本さんが三島と出会ったのは67年暮れ。そのころ三島は「楯の会」の前身となる民間防衛組織をつくり、体験入隊の形で自衛隊の訓練を受けていた。師団長を務めた陸自OBらの要請で、68年5月から山本さんは調査学校の部下とともに三島らに情報員としての訓練を行った。

 内容は、ゲリラ戦を想定したものが主体で、講義のほか都心で変装して尾行をしたり、グループに分かれてひそかに連絡を取り合ったりするなどの訓練もあった。三島自身も労働者に変装して簡易宿泊所街に入り込んだこともあるという。

 調査学校は、若手陸自幹部に外国語や情報に関する教育をするため、54年に設立された。

 こうした訓練には調査学校の学生も一緒に参加していた。三島への訓練は上司にもある程度報告しており、「半ば公認されていた」という。

 また、「新宿騒乱事件」につながった68年10月の国際反戦デーの集会では、調査学校の学生と「楯の会」のメンバー計数十人が、山本さんの指揮で学生らのデモ隊の中に潜入し、組織リーダーがだれかなどを調査する訓練を行っていたという。

 訓練は安保闘争の高まりを受けて、自衛隊の治安出動を想定したもので、調査学校の教育課程は増強され、訓練に参加する三島らの食費などが公費でまかなわれたこともあるという。

 三島は有事の際に自衛隊とは別にゲリラ戦を行う防衛隊の設立を構想しており、同じ考えを持つ山本さんと交友を深めていった。事件の前年の69年6月に三島に呼び出され、「楯の会」が皇居に突入するという「クーデター計画」を示されるが、山本さんは反対。同席していた三島シンパの自衛官に「憶病者」とののしられたという。そのころから三島との間に次第に距離ができたという。

 防衛庁はこれまで情報員訓練の内容や三島との関係を明らかにしていない。山本さんは「三島は自衛隊の治安出動を機にクーデターを構想していたようだ。当初はそれに理解を示した自衛隊幹部もいたのではないか」と言う。その上で「決して狂気に走ったのではない。訓練を受ける中で自衛隊への期待を高め、その後に裏切られたと思ったはずだ」と話している。

 山本さんは三島との交流をまとめた『自衛隊「影の部隊」――三島由紀夫を殺した真実の告白』(講談社)を来月出版する。

 防衛庁は「本の内容が分からないので、コメントは差し控えたい」としている。
http://mesh.com/national/update/0525/021.html

三島由紀夫の「檄文」の中で「4年待った。」「1年は熱烈に待った。」という意味は上の新聞記事、山本舜勝の言う通りクーデター計画を仄めかされた挙句の暴走である。軍事利権を拡大し、それを握れば日本のほぼ総ての利権構造を掌握できることは戦前に証明済みである。憲法改悪がその重要な1歩である右翼にとって三島由紀夫は利用するのに適任であった。


楯の會隊長 三島由紀夫
、、、
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冐涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。  日本を日本の眞姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の價値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の價値の所在を諸君の目に見せてやる。

「少女のような声をあげる、、」(「剣と寒紅」)男と男の間に「生命」は産まれない。 手にすることの出来る「実在」の命が「妊娠」出来ないのなら、魂とか武士道とか幻の天皇などにすがり付くことにしか充足はあり得ない。母親の乳房を追い求める男たちが怯えながらすがりついたドキュソな幻影が明治から平成に至る日本史を創り上げてきた。すがるものが、あいするものが、国境の内側にしか存在しないという卑小な矜持は常に喜劇でしかない。

それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と傳統の國、日本だ。これを骨拔きにしてしまつた憲法に體をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、眞の武士として蘇へることを熱望するあまり、この擧に出たのである。

まさに三島由紀夫は、
近代日本が産み出し続けてきた「一人で敢然と立つことの出来ない脆弱な男」の典型であった。天皇制という小賢しい究極の利権体制に、手も無く利用され尽くした挙句、自己撞着の果てに自滅する男たちの群れがこの国を先導してきた。かれらの滑稽な弱さが、憂鬱な悲劇をエスカレートさせて行く土壌を常に用意し、いつしか伝統と化して来たのである。
三島の心中に衝撃を受けたという幼稚な男たちの群れ、、、その卑小な心性を染め上げて来たあの喜劇的な「美しい国のうつくしい伝統」である。



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