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1968年、全共闘は明治以来の軍事利権の構造に対して日本史上かってない壮大な闘いを開始した

身をもつて神風となり、皇国悠久の大義に生きる神風特別攻撃隊五神鷲の壮挙は、戦局の帰趨岐れんとする決戦段階に慮して身を捨てて国を救はんとする皇軍の精神である……科学と物量とを唯一つの恃(たの)みとする敵に対して、科学を超越した必死必中のわが戦法はわが尊厳なる国体に出づる崇高たる戦ひの妙技であらう》
 昭和19年10月29日、朝日新聞は第1回神風特攻隊をこう褒めたたえました。このときすでに 《科学を超越した戦法》
《今までに出撃した隊のなかには、飛行機の故障で帰ってきたのもあるが、万遺憾のないよう十分に注意せよ。また、すこしぐらいの故障で帰るようでは、意志力がたりない。……敵艦に突入する時は、目を見開いていることだ。目をつぶって突込むような者は、特攻隊になっていないはずだ》(高木俊朗「特攻基地知覧」)
 清原勉少尉(当時24歳)の言葉です。こうして清原隊は、昭和20年4月16日に出撃、全12名のうち9名が玉砕したのでした。


大戦末期、もう既に戦況が大きく悪化して、通常の作戦では日本本土に迫り来る米艦隊に対抗する事が出来なくなった状況下、帝国陸海軍は「特攻」専用兵器を次々と計画開発してゆきます。陸軍においては、ブリキ、トタンを多用した使い捨て特攻飛行機「剣」海軍では、93式酸素魚雷に人間を載せて操縦させるよう改造した人間魚雷「回天」、ベニヤの船体に自動車のエンジンをつけた特攻ボート「震洋」、有人飛行爆弾「桜花」、、。

これらのうち、陸軍の剣を除いては、実際に使用され、多くの人命(もちろん日本兵の)を奪いました。(剣は、100機弱作られたんですが、実戦には使用されませんでした)この他にも、幸いにして計画だけに終った特攻専用機として、海軍の「梅花」「藤花」、試作機が作られただけの「橘花」等があります。いずれも、極度の資源不足を背景に、ブリキ、トタン等を多用した、簡単な構造の安易な兵器でした。

今回ご紹介する「タ号特殊攻撃機」は、昭和20年2月、「国際航空技術研究所」で計画、試作された特攻専用機です。(もちろん実際には使用されませんでした)

なんとこの機体、エンジンなどを除いて、全て木製!エンジンは100馬力の「四式基本練習機」のものを流用しています。(参考までに零戦は1000馬力弱のエンジンを積んでます)

そして、機体を作る為の木材!山から木を切りだして乾燥させて・・・・なんて悠長なことをしているヒマはありません。なんと「電柱」を切り倒してそれで機体を作るという計画でした。(冗談ではありませんよ)それも、既に正規の工場、技術者も激減した状況下、「カンナとノコギリを使える者なら誰でも作る事が出来る」ようにと、機体は直線でまとめられています。通常の戦闘機さえ、動員された女学生や婦人の手で作られていた状況とはいえ、これはスゴすぎる・・・・・・・・・・。

もう、ほとんどやけっぱちのようなムチャクチャな飛行機ですが、「タ号」の「タ」は「竹槍」の「タ」だそうです




飛行機の審査官としてテストに当った元陸軍将校にお会いし、話を聴く機会を得た。その話によると、すでに日本軍の戦法を知り尽くしたアメリカは、特攻機に備えて艦船は針ネズミのように機関砲で固め、その火網の激しさは筆舌に尽しがたく、わが国の残存航空兵力では到底近寄りがたいものであった
戦後の文献によると、キ-115は昭和20年1月20日に「特殊攻撃機」という名称で試作命令が出されていた文献によるとキ-115には乙型というのがあったことを私は初めて知った。その内容は、主翼面積を2.1平米増大し、かつ木製化するというものであった。

「本機は逼迫セル戦局下航空機生産量ノ低下ヲ補ハンガタメノ装備及構造ヲ出来得ル限リ簡素化ヲ以テ、従来ノ同型機種ニ比シ製作工数ヲ約1/5ニ低下セシムル如クセリ」とあり、また降着装置の項では「主脚ハ工作困難ナル引込式ヲ廃シ且性能低下ヲ来サザル如ク投下式トシ着陸は胴体着陸ニヨリ人命ノ全キヲ期ス」
99年春、青木邦弘技師の自費出版の本書が改めて「光人社」から発行されました。タイトルは下の写真のように「中島戦闘機設計者の回想」



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