安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争
 

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」
東大全学学生解放戦線 1969年1月19日午後5時50分

安田講堂1・18〜19闘争が切り開いた全国学園闘争

今井 澄(東大医共闘)hnn
 1・18〜19闘争とそれが切り開いた全国学園闘争は、東大闘争がこの一年有余の発展過程で登りつめた地平と、10・8羽田闘争以降の学生運動が10・21新宿闘争を経て切り開いた地平がみごとに一致したものとして実現された偉大な闘争である.

 全国学友の総結集をもって闘われた1・18〜19闘争は、言うまでもなく一東大闘争の帰趨のみにかかわるものでもなければ、敵側の各個撃破の最大拠点を守るといっただけの意義で闘われたものでもない。それは、六八年全国学園闘争がかちとった高度な質を六九年闘争の爆発として実現し、七〇年安保沖縄闘争へ連続的に発展させ得るか否かの帰趨を決するものであった。もちろん、こう言ったからとて、それを「闘争の激しさ」や「活動家」を七〇年闘争へ持ち込むことだなどと歪曲する者があるとすれば論外である。

 1・18〜19闘争は、六九〜七〇年闘争の帰趨を決する闘争であったと言うのはどのような意味でか?
 1・18〜19闘争は、軍事的に勝利するか否かにその闘争自体の勝敗がかけられていたのではないことは明らかである。1・18〜19闘争は、内外の権力機構を動員し− つまり、学内にあっては右派・民青のカ、諸手続き、学外からは機動隊−闘争を圧殺し、「正常化」=旧秩序の回復をはからんとした政府・官憲と大学当局の一体となった挑戦を真正面から受けて立ち、当局の意図を挫折させることにあった。そして、我々は、見事にその勝利をかちとった。当局の意図した秩序回復は、未だに、機動隊大学と化しても、果たされていないのみならず、ますます混乱が深まっているではないか! 政府・官憲の意図した治安維持も、我々の部隊を追い廻し、たしかに闘争を困難ならしめているが、隊列は減少していないし、戦術も決して低下していないではないか!

 我々が断乎として闘い抜く限り、機動隊は学内に留まることになるだろうが、そのような状態は誰が見ても「正常化」されたものとは思えないし、そのような状態下での「改革」が何の「前進」 「解決」をも意味しないことは明らかである。それよりも全ての人々の眼には、機動隊をもってしても強引に守られねばならない「株序」や「学問研究」 「教育」の階級的本質がますます明らかになるだけである。
 すでに、18〜19日、機動隊の側からしか闘争を見聞きすることができなかった多くの労働者・市民の中にすら、「あんなにまでして行なわねばならない″正常化″とは何か」という疑問が広汎に浸透し、さらに「あんなにまでして闘った学生は何を訴えたかったのか」という関心が拡まっている。そのような情勢の中で、我々を無視し、抑圧して「正常化」を行なおうとしても、もはやそれは不可能なのだ!
 我々の1・18〜19闘争は、このように「正常化」を不可能にすること、つまり、大学内に秩序が回復し得ない状況をつくり出すことによって、東京帝国主義大学解体を一歩進めたのである。

 我々の1・18〜19闘争は、東大における秩序回復を不可能にし、混乱を深めたのみでなく、帝国主義大学解体の闘争を全国学生総叛乱として実現する突破口となった。それは京大を中心とする全国入試阻止闘争として爆発した。
この入試阻止闘争は帝国主義大学解体一帝国主義教育秩序解体の思想を持たずして闘い抜き得ない闘争だったのだ。
ちょうど、東大における全学バリケード封鎖闘争が、それ以前の「東大の一切の機能を麻痺させることによって当局に迫る」といった位置づけを中心とした思想では闘い抜き得ず、一切のブルジョア的な、すなわち現存の学問研究・教育を否定することをも含めた帝国主義大学解体の思想をもって初めて提起し得たように、、、、。

 1・18〜19闘争はまた、戦後氏主主義に破産宣告を突きつける闘争でもあった。「七学部代表団」なるポツダム自治会の形式民主主義にのっとって閉争を収拾しょうという策動を完全に粉砕し、闘いの中の直接民主主義−それは全共闘の歴史と共に生まれ、発展して来たが − を高らかにうたい上げた闘争でもあった。

 戦後二十数年の問に、ただひたすら、支配階級の支配を平和的に貫徹するための手段、多数によって少数を圧殺するというおきまりの儀式と化した議会制民主主義は、人民の生活と権利を守るものとは全く縁もゆかりもないものになってしまった。議会制民主主義を軸とする「平和と民主主義」の思想は、形式民主主義を通して平和的に歴史の変革へのエネルギーを圧殺する以外の何物でもなくなってしまった。そしてまた、戦後民主主義への破産宣告は、同時に「進歩的」「民主的」学者・文化人への訣別をも意味した。彼らは、ブルジョア支配の補完物としてエセ民主主義や「進歩」の幻想を振り撒くことによって、人民の闘争の牙を抜いて来たのであった。

 1・18〜19悶争は、このように、支配階級による秩序を否定すること、つまり、混乱の深化・永続化、戦後民主主義への破産宣告と、闘う直接民主主義の確立、そして、一切のブルジョア学問・研究・教育の否定を打ち出すことを通じて、闘いの中から新たなる秩序=権カの創出を提出した。
 それは、10・8羽田闘争以後の学生連動が、10・21新宿闘争において明らかにした地域的混乱−地域的人民権力樹立の闘争と内容的に結合するものに他ならなかった。かくして、1・18〜19闘争は東大構内と神田において呼応して闘い抜かれたのである。

既成秩序の破壊以外の何ものでもなく、そのことによってもたらされる混乱は、ブルジョアジーによる階級支配の貫徹が困難となることをのみ意味する。そして、かかる混乱はやがて新しい人民による人民のための秩序が拡大し、それをもって収拾されるための前提に他ならない。このような既成秩序の破壊は、既成秩序の中にがっちりと組み込まれている人民の叛乱によって行なわれるのであるが、それは、その叛乱に決起する個人個人にとってみれば、日常性からの脱却に他ならない。既成秩序の破壊は、当然にも、その秩序を是とする価値観の否定、破壊抜きにはあり得ない。秩序維持によって守られていた幾千万の神話の破壊である。いわく、市民生活の安全、平和、繁栄、進歩、向上・・・とりわけコンピューター革命等が云々される現代にあっては、「科学技術の発展が人間社会の進歩をもたらす」という神話が根底から破壊されねばならない。

このような神話の破壊は、これまで一つしかないと考えられていた人生が、実はもう一つあることを明らかにする。資本制社会において、賃金奴隷として、いわゆる管理社会にがっちり組み込まれ、繁栄をおしつけられ、消費の拡大を強要される生活をはっきりと拒否し、抜け出すことが可能であることを既成秩序の混乱は示してくれる。

そして、労働者階級を先頭とする人民の闘争の戦列に加わるという輝かしい人生を示してくれる。
我々の闘争は、既成秩序を温存し、とりわけ、自己の日常生活を温存したまま進められるものと考えない。かつて、闘争は、ある日、ある時、街頭に出、中央諸官庁にデモを行なうという形で闘われた。学生のストライ闘争も、大学における日常的な教育・研究をほんの一時期中断するだけのものでしかなかったし、労働者のストライキ闘争も似たりよったりのものだった。つまり、かつての闘争は、ブルジョア的な日常性と日常性の間をつめるような形で闘われていたにすぎないと言っても過言ではない。このような闘争は、「平和と民主主義を守る」という観点から、それを侵害しょうとする政府支配層に反撃を加え、侵害を断念させるという闘いであって、つまり、ブルジョア秩序を守るものであって、既存の秩序そのものを支配階級の秩序としてとらえ得ていなかったのである。さらに、このような闘争は、せいぜいのところ、政府支配層のある政策の貫徹を阻止し、そのことを通じて、ブルジョア支配の貫徹を困難ならしめ、その結果としての支配秩序の一時的混乱を期待するといったようなものであつた。

このような闘争が闘われて来た根底には、くり返して言うが、既存秩序は支配秩序に他ならず、そのこと自体が階級支配の貫徹を意味しているという把握の欠如ないし不足がある。そして、そのことは、前述の通り、平和と繁栄そして進歩等々の神話が疑いをさしはさむ余地のないものとして存在している。

 東大闘争において「日常性からの脱却」 「内なる東大の破壊」ということが語られるとき、それは、大学における支配秩序の破壊のみならず、「大学の自治」なる秩序概念を支えている学問研究および教育にまつわるあらゆる神話の破壊を意味するのである。「学問の自由」「教育の中立」などに始まって、「真理の探究」「科学の進歩」などが絶対善、絶対真とされる神話である。

 東大闘争が、医学部における研修協約闘争として始まり、不当処分白紙撤回闘争を通じ、〔六八年}六月十七日の機動隊導入を契機に全学化したことは周知の事実である。そして、このような局面の展開が、大学当局(当初は医学部当局)の「話し会い拒否」と力による弾圧に対し、相次ぐ実力闘争による反撃というかたちで行なわれて来たことも周知の事実である。
 三月十二日、処分が発表されて以降の医学部全学闘争委員会の評議会団交、卒業式・入学式阻止、学生委団交、そして時計台第一次占拠といった一連の闘争がどのような位置づけで闘われたかを最初に明らかにしておく。

 言うまでもなく、それは十七名の大量不当処分の性格・本質そのものにかかわる。医全学闘が求めた研修協約そのものは極めて些細な改良的要求に他ならなかったが、当時、政府・厚生省との意志一致の下に、青年医師収奪のための登録医法成立に全力をあげていた医当局にとっては、この法案に反する協約を結ぶこと、自らの支配体制を覆すような(非人局の)青医達を公認することは絶対にできないことであった。それ故、一切の話し合いに応じないだけでなく、春見事件を逆用して、主だった活動家のパージによって一気に運動の撃滅をはかったのである。つまり、医学生・青年医師と医教授会当局(そして政府・厚生省)とは、全く相反する利害関係にあり、さらに医療政策等をめぐって完全に対立する立場に立っていたのである。したがって、権力を一手に握る医教授会はその権力をフルに発揮し、一方、医全学闘は、無権利の者にとっての唯一の武器である大衆的な団結と実力により、当局を学生・青年医師の大衆の前に引き出そうとしたのである。

それ故、全医学闘が採った実力闘争方針は、まず第一に、医当局そして東大全学当局が、学内における権力、そしてそれが機能できるその所以であるところの大学の「正常な機能」としての教育・研究・診療を完全に停止させるということであった。その際が教授会メンバーでない、つまり学内権力機構員でない研究者については、やはり、彼等が日常的な研究に埋没し大学の「正常な機能」を維持している以上、我々としては、実力闘争の対象とせざるを得なかった。このことは、彼らが主観的には権力者=教授会に加担していないと考えていたにしても、実は客観的・現実的に権力を支えているのだということを悟らせ、また、そのことを通じて、彼らが日常的に行なっている「学問研究」なるものの階級性を明らかにする上で、大きな意義を持った。
 もちろん、このような闘争の推進は、闘争主体自身が、帝国主義大学で商品として生産されながらも、客観的には人民に敵対する支配階級の手先となるという自らの立場を拒否し、否定して行く、そのような主体変革を抜きにしてはあり得なかった。このような主体変革は、一つには、客観的・階級的な自己のそして大学の位置づけを通じて行なわれ、一つには、大学と学問にまつわる数々の「神話」の破壊を通じて行なわれた。

 現在の大学がその創立以来の歴史を通じて、常に支配階級の支配を貫徹するための道具として機能して来たことは言うまでもない。とりわけ、東大は帝国大学として創設された時以来、高級官僚、高級技術者、体制イデオローグを続々と生み出し、一万において、官学・産学・軍学協同の更に位置して、日本資本主義の帝国主義的発展のためにその「学問研究」の成果を注ぎ込んだのである。権力と無関係の、あるいは反権力的な学問研究があったと言う人がいるかも知れないが、よくよく考えてみれば、そのような「学問研究」は、総体として権力支配の道具であった東大における学問研究の補完物にすぎなかったこと、それ故、階級支配の手段としての学問研究の権力からの独自性といったイデオロギー的粉飾を支えたものに他ならないことが明らかになる。東大生や東大出身者で、例えば新人会などのように人民の闘争の前進に力をつくした者も多いと主張する人がいるかもしれない。しかし、そのことをもって、東大における学問研究や教育が一面において進歩性を持っていたということの証拠になるであろうか?そのような学問研究や教育は大学において初めて可能だったのであろうか?階級支配のために設定された大学において、応々にして反権力的・反体制的学問研究や教育が行なわれることがあるのほ事実である。しかし、それほほとんどの場合、階級支配のための補完物にすぎず、それが現実に被支配階級にとって意味を持ち得たのは、真に闘う部分がそれらをつかんだ時にすぎなかったのである。

階級闘争が闘われるとき、革命的あるいは進歩的な理論があるとすれば、それは決して机上の研究から生まれたものではないのである。それらは階級闘争が自らの中から生み出すものであり、学者あるいはインテリゲソチャとの関係で言えば、彼等を階級闘争の真只中に引き込んで、はじめて彼らの理論的活動を階級的なものと成し得るのである。

 現在、全ての学問研究は、誰の眼にも明らかなように権力と資本に奉仕しているもののみならず、「進歩的」「民主的」と言われて来たものを含め、全てが解体を迫られており、全く新しい立場からの再編を要請されている。すなわち、学問研究がもし人類の進歩、歴史の発展と共に、そのためにあらんとするならば、まず第一に、人類の進歩、歴史の発展を推進する者は資本主義搾取機構の上にあぐらをかく一握りの支配階級ではなく、労働者階級を先頭とする圧倒的多数の人民であることをはっきりつかむことである。そしてそのような把握をするならば、新しい立場とは、労働者階級を先頭とする人民の闘争が前進するのに役立ち、あるいはその闘争の前進の中ではじめて進歩するものでなければならないという立場に他ならないことも明らかである。

「科学」と名づけられるものは、それ自身の中に一つの展開・発展の論理を持っているかもしれない。しかし、それはあくまでも階級社会から独立したものではあり得ず、権力との関係においては、それに奉仕するか敵対するかの二者択一しかあり得ず、生き生きとした階級闘争の展開からエネルギーを与えられずには展開・発展の契機をすらつかむことはできないのである。

このことは、社会科学にのみあてはまるものではなく、自然科学においても同様にあてはまる。人間の自然に対する闘いは生産闘争に他ならないが、これは階級闘争と表裏一体の関係にある。
 「どのような社会体制においても、どのような思想に基づいても、自然科学においては研究結果は同じだ」と言う人があるかも知れない。そして、個々の分野の結果について言えば確かにそうかも知れない。しかし、そこで重要なのは、その個々の結果に至る過程であり、それがどのような全体像の中で進められるかという問題である。ある具体的な時間の流れの中で、ある人々が、ある一定の手段や資料を使って、何のために、どのような方法で自然にアプローチするかということは、明らかに社会的な人間の営み=階級闘争と生産闘争によって規定されねばならないし、全体像は階級的歴史観・自然観以外の何物でもない。

 新たな立場に立っての学問研究の再編成方向は、新たな社会をつくり上げる主人公として労働者階級の立場に立つことに他ならないが、労働者階級の立場に立つということは、彼等の歴史的事業である階級闘争が、階級の廃絶をめざす闘いである以上、明らかに、精神労働と肉体労働という分業を止揚する方向でなければならない。とするならば、この方向は中国において展開されているプロレタリア文化大革命の指向する方向にそって行なわれねばならないことも明らかであろう。すなわち、もし新たな立場に立った学問研究の再編があるとすれば、それは、精神労働を専らにする知識人の手にょってなされるのでほなく、つまり、何か新しい「科学論」とか「技術論」とかを発見することの中からなされるのではなく、戦闘的労働者階級の闘争を発展させるという観点からのみ、運動論=階級闘争論として、行なわれるであろう。

 このことは又、学問研究と権力、学園闘争と権力の問題をも明らかにする。すなわち、かかる観点からのプロレタリア的学問研究の確立は、労働者階級による権力の樹立を抜きにしては語り得ないものであり、したがって、六八〜六九年学園闘争は、自らの中にブルジョア的学問を解体し、プロレタリア的学問を確立するという独自の方向性を有しつつ、労働者階級の闘争の前進という普遍的方向性を自らの闘争の発展の方向性として持っている。階級闘争の前進と相対的に独自に何か「民主的」 「進歩的」学問研究をつくり上げる運動などはない。と同時に、体制の変革なしにはプロレタリア的学問研究はあり得ないとしながら、逆に体制さえ変革されれば学問研究はただちにプロレタリアートのものとなるという考えも全く間違っている。ソ連に見られるように、一たびプロレタリアートの手に権力が握られながら、学問研究、そして教育は、その本質においてプロレタリアートのものとならなかった。
それらは相も変わらず一握りの人々によって専有され、新しい知識階級=官僚層を生み出したのである。

 我々の半年は七項目要求の闘争に始まり、今、東京帝国主義大学解体の闘争へ発展している。そして、全教育秩序の解体へ、帝国主義秩序の解体へとつき進もうとしている。かかる発展の中で 我々の闘争は永続性を獲得し、個別闘争と全人民的闘争という区別をはっきり止揚する方向を切り開いた。かかる闘争ほ、したがって、権力者・当局者に何かを要求する闘争ではないし、また、権力者・当局者の政策を粉砕するだけの闘争でもない。明らかに労働老人民の権力樹立を目指す永続的・連続的闘争である。
 我々が「帝国主義大学解体=二重権力を創出せよ!」と言うのは、まさにこのことを指している。不断の闘争=不断の支配秩序蚕食(解体)=不断の人民支配圏の拡大、がその内容である。

 我々は我々の日々の生活の場に戦場を設定したのである。我々の日々の生活の場を支配階級に制圧されるのか、我々自身が支配するのかと言いたい。退くことも中断することもできない遊撃戦が始まったのである。このような闘争は苦しい。とりわけ軍事的には非常に困難である。しかし、このような闘争が全都・全国に多数の拠点を定め、展開されるならば、そして、当然のことながらそれが統一した指導の下に闘われるならは、支配階級の暴力装置は全く無効となり崩壊する。これらのことは、中国人民が、ベトナム人民が、そして、多くの戦闘的人民が実証してくれた闘いの路線である。これこそが人民戦争1解放戦線路線であり、日本においては、10・8羽田闘争以降、全学連を先頭に戦闘的労働者。農民・市民が切り開いて来た路線である。

我々は、日本における階級支配の重要な拠点となっていた東大の中から、この輝かしい全人民的闘争の高地にまで登りつめたことを誇りとする。我々は、今、東大闘争が日大関争等と連帯する中で、10・8羽田闘争以降の人民戦争−解放戦線路線の展開へ、身をもって自らの力で到達したことを誇りとする。我々は、今や、反人民的な〔東大〕九〇年の犯罪的歴史をはっきり打ち破って、人民の闘いの過中にとび込んで行かねばならないし、人民が必ずや我々を迎え入れてくれることを確信する。

 現在、非常に狂暴化した弾圧の下で多くの学友諸君が閉っているのを、厚い壁を隔ててしか聞くことができないのは何よりも辛い。我々にできることと言えば、長期不当勾留による弾圧に屈せずがんばることと、外の同志諸君に迷惑をかけないことくらいなのだろうかフ・我々、自由を奪われている老は、日々の勾留生活の中で、釆たるべき日のために理論と知識を貯め込んでいるだけではないのだ。日々身体を鍛えていること、そして、何よりも支配階級に対して、怒りと憎しみの炎をますます高く燃え立たせているのだということを彼等は思い知るであろう。
                                   69・4・9 東京拘置所〔3〜4号)


1969年(昭和44)5月28日・高野悦子
 現在の資本が労働力を欲しているが故に、私は、そして私たちは学力という名の選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理によって動かされ、資本を強大にしているだけである。




今井澄氏は2002年9月、62歳で亡くなった。
お別れの会で坂口厚生労働大臣から始まったお別れの言葉は6人続いて最後は元東大全共闘議長、白い鬚(ひげ)の山本義隆氏が登壇した時、会場はピンと糸が張ったようだった。

山本氏は語りかけた。
「安田講堂防衛隊長の今井、地域医療のリーダーの今井、国会議員の今井、君はその短い人生を全力で駆け抜けた。だから率直に言って、他人(ひと)の三倍ぐらいの人生を歩んだと思う」。

生と死。別れ。生者がいる限り、死者も生きる。

全共闘はそのゲバ棒スタイルから「民主主義の破壊者」とも呼ばれた。しかし、元東大全共闘で民主党参院議員の今井澄は「形式的な人任せの民主主義ではなく参加する者の民主主義を目指した。参加しない者には発言権はなかった」と民主主義の徹底が運動の背骨だったと説く。

告別式は2002年9月8日(土)13時から長野県茅野駅前の市民会館で執り行われた。遺影の脇には、お気に入 りの淡いブルーのスーツ、スキーセット、愛用のメガネなどとともに、学生運動時の東大安田講堂防衛隊長のヘルメットが並ぶ。また、告別式当日、ひっそりと田中康夫知事も後ろの方の列席し、静かに献花をしていた事を、後日、新聞で知った。

  享年62歳。東大の安田講堂をめぐる攻防の指揮をとる全共闘の行動隊長として活躍した。「帝大粉砕」闘争。この闘争で、東大を退学処分になった。その理由は、「学外の者を東大構内に入れて闘争した事」。その後、医学部を卒業し、長野県の慢性"赤字"病院に赴任し、赤字解消を目指すと共にあるべき地域医療制度をめざし、地域の若い医師と共に語り明かし議論してあるべき姿を求めた。

  目標は、「開業医とのネットワーク。在宅診療。高齢者を風呂に入れること」だったと聞く。40歳で院長となり、努力の結果、病院の経営赤字は解消し、"黒字"病院となった。医療制度の改革に取り組み今日では、長寿国日本一となった。

  その後、1992年、参議院選挙に社会党から出馬し、見事に当選し、医療制度改革と「公平公正な社会」の実現に努力した。政権交代を実現しなければ日本は変えられないとの信念から、社会党改革にも率先して行動され、民主党結成にもいち早く賛同され、行動を共にしてきた。全共闘の行動隊長であったとは聞いていたが、穏やかな物腰の人物であり、特に医療制度の改革を語る時、その姿勢に情熱を感じた。長野県の知事選挙でも、民主党国会議員の中で只一人田中康夫知事支援を明確にし行動された。自立の心を持ち、最期まで信念を持ち懸命に生きる人であった。心からご冥福を祈る。

水島広子議員
今井さんは民主党の国会議員の中で唯一、田中康夫支援を明確にしていた。田中さんの初回の知事選の時には私も長野に応援に入ったが、それは今井さんの依頼によるもので、今井さんも当日一緒に街頭に立たれた。そのときに私の演説を聞いて、「今の演説は良かった」とほめてくださった。
7月にお会いしたとき、腰痛を訴えながらも、「医療の現場は大変なことになっている。私のところにある資料を届けますから、あとはよろしく」と言われたのが、私にとって今井さんとの最後の会話になりました。今井さんが私にくださった貴重な遺言であると受け止め、ご遺志をつげるように努力してまいりたいと思います。

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