それまで安田講堂は文部官僚に占拠されていた

1968年6月17日、
文部省から派遣された事務次官が大河内学長に詰め寄った。

「あの学生たちを講堂から追い出せ」
東大は「東大生」という高級霜降り肉牛を生産する第一級の飼育所だ。有用な家畜に勝手な真似はさせない。

安田講堂に陣取った文部官僚が学長を恫喝し構内に国家の暴力装置が始動した。

収奪と侵略の先兵に若者たちは初めて真正面から闘いを挑んだ。
明治という腐った時代が用意した奴隷のシステムに、日本の歴史上かってなかったラジカル(根源的)な闘いの幕が切って落とされたのだ。
学徒出陣、神風特攻隊、
破廉恥極まりない帝国は子供や学生すら楯にして生き延びてきた。

世界史上類を見ない
強固な
奴隷のシステムとの決戦に向けて数十万の若者たちが陸続と結集を始めた。


自ら退路を断った全共闘は
敗北することの出来ない闘いを担って歴史の最前線に進撃を開始した。



1968年6月17日、
大学当局1200人の機動隊を導入
1968年6月20日
医学部の今井澄は、続々と集まる学生たちを見て驚いた。
「私にとっても全く新しい経験だったんですけれども、学科ごとクラスごとにそれぞれ旗を押し立てて安田講堂に抗議に押しかけてきたんです。その光景を見て、私はもうたいへんびっくりしました。
それまでの学生運動というのは選挙で選ばれた指導部があって、その指導部が方針を出すことによって運動が始まるものだったんです。労働運動もそうでした。 ところが、全くそうじやない。自主的に、下から、個々に、分散的に起きた。そういう人たちがほとんど安田講堂前を埋めつくしたんです。私はそこへ行って呆然として見ていました。これはいったいなんだろう、全く新しい運動の始まりだというふうに思いました」

二〇日のうちに開かれた記者会見の席で、大河内総長は機動隊導入がやむをえない措置だったことを強調した。しかし、学生たちに対しては説得力をもたなかった。
なぜ機動隊導入に踏み切ったのだろうか。
 医学部教授だった山本俊一は次のように解説する。
「安田講堂にいるのは、文部省から来ている文部事務官たちです。その庶務部長が怒ったわけです。大河内さんにひざ詰め談判で、『われわれは利害関係がないのに、こんなに学生に迷惑を被っている。彼らを追い出してくれ』と。大河内さんはそうしたくなかったんだけれども、庶務部長には弱い立場だった。彼らはストライキと無関係な人間でしょう。それが学生に追い出され、部屋の中をめちやめちやに荒らされた。『こんなことは絶対に許せない。最高責任者として、これを追い出してくれなければ困る』と言われたら、『まあまあ』なんて言っていられないでしょう」
 しかし学生たちは、こうした大学側の内部事情に関係なく、学部や大学院ごとに次々に新たなストライキに突入していった。

「当然、党派の人たちはたくさんいました。それは、持ちつ持たれつなんですよ。デモの指揮とか、実際に何かする時には、やっばり党派の人間は慣れているから便利です。パッと動いてくれる。
 しかし、全共闘からすれば、彼らに引きまわされたくはない。だから、学生運動の経歴があまりな
い人たちが全共闘を指導していました。そして、実行部隊にはいろいろな党派の人たちも入っていて、そうじやない人も大勢入っているというような組織でした」橋爪。

全共闘には、特別の役職がない。
しかし、そのシンボルとなった人物はいた。
それが理学部博士課程の山本義隆(当時二六歳)である。山本は、代表者会議の司会を務めているうちに、その力量を周囲に認められて 「東大全共闘代表」と目されるようになっていく。
 山本は、どこの党派にも所属していなかった。
ただ、大学管理法反対闘争の時に安田講堂前で一人テントを張って抗議したという伝説をもつ男であり、全共闘以前は「東大ベトナム反戦会議」で地道な反戦運動を続けていた。
専攻は素粒子論。当時は、京都大学の湯川秀樹教授のもとに国内留学しており、将来を嘱望される研究者の一人だった。それまでの学生運動家タイプからはずれる人物だった。
 当時、教養学部の生物学教室の助手として闘争に参加した最首悟は語る。
「あいつはとにかくとてつもなくできる男なんだということで、山本にはみんな一目置いていました。このままいけば、東大の理論物理をしょって立つ男なんだろうなということは、僕たちだけでなく教授たちも同じ認識だったと思います。それが闘争に飛び込んでくるとなれば、これは将来を捨てることになる。これが大きな衝撃でねえ。山本が出てきたというので、『これは職業的革命家が指導する学生運動じゃないんだ』ということになってきたわけです」

7月2日、安田講堂が再び占拠

7月5日、講堂内集会において全学共闘会議(代表・山本義隆)が結成され、医学部不当処分撤回や機動隊導入自己批判など7項目を要求することで闘うことを表明。

同日、教養学部も無期限スト突入。

7月23日、全共闘を支援する全学助手共闘会議も結成される。

10月12日、全共闘側が全学無期限ストに突入。