擬制の終焉・・・・地に墜ちた権威主義


1968・12・9 
全学助手共闘会議

我々の7項目要求の目的ーーそれは「東大の変革」である。
然らば今日までの東大に存在していた、変革さるべき「非民主制」とは何か。
一言で言えば「教官の異常なまでの権威意識」およびそれから生ずる各個の制度にみられるところのものである。

 東大教官の地位と結びついた権威、それにしがみつく異常な人間像ー−それが90年の歴史のうちに東大を今日あるが如き腐臭に満ちた姿へと育てて来た。
 我々の社会においては、すべての権威は否定されなければならない。
然るに、東大においては過去現在にあって、この「権威」がすべてを支配してきたのである。しかもその権威の源を探究するや、我々は権威の存在の不合理と並ぶ不合理を知るのである。教官の権威の源はその地位である。さらばその地位はいかにして与えられたものか。
閏閥、ゴマスリを論外として、正常な場合のみを考えるとしても、たかだか技術的にすぐれているというだけのものでしかない。しかも狭い分野の専攻研究によりエンジニアとしてある程度のレベルに達しているだけー−それが東大教官の地位の源なのだ。

 教育者たる者は技術があるだけでなく、人格的にもすぐれたものでなければならないという理念があ。しかし、俺は大学教官だ、教育者だ、だから人格的にすぐれているという理論が成り立たないことは、小学生でも知っている。大体、大学の教官になるために彼らは教育者たるの訓練を受けていないし、人格的な評価も問われていない。
しかし教官は技術的に長じたが故にその地位を得ただけで、人格的尊敬を受ける人間と同じ存在にあるかの如き「妄想」にとらわれているのである。
これは他人がみてお気の毒にという同情だけでは済まされない。なぜなら、その異常なまでの妄想をもった権威亡者が、大学の全体を観念的に、制度的に支配しているからである。
 教官は、大学の内にあって他の身分にある者(学生、職員)よりも常に上にあると信じている。
否、かく妄信している。その愚かさをこの辺でゆっくりと反省すべきである。教官は技術者であり、学生に技術を伝えているものである。(それ以上の何ものでもないことは、その地位取得の過程から明らかである。)従って教官と学生との間には技術の売買、職員との間には大学社会における機能の分担の関係しか存在しない。然るに教官様は、愚かにも、この当然の事実を知らず、職員、学生よりも上の存在と思っている。その結果、彼らは常に背のびをしながら東大の生活を送って来た。そもそもありもしない権威を自ら想定してそれを守るために汲々として来たのだ。林学部長救出?運動に際して彼らがまず云ったセリフーーー「恥も外聞も捨てて、学生諸君にならってシュプレヒコールをやりましょう。」−−こそれがはっきりと現われているではないか。云いたいことを大声で云うことがなぜ恥なのか、何故に外聞を気にするのか。我々に教官が集まって大声で自分らの主張をするのをみて、何とも思っていない。(内容は別)我々若者は、かなりの「民主」教育を受けて育って来た。それ政教官に対しても当然に一人一人を人間として観察する習慣をもっている。教官の地位それ自体を権威と結びつけて考えるようなまねはしない。若い職員もそうだ。それなのに教官は自分達だけで勝手に自己に権威あるものと誤想して、無いものを守らんと必死になっている。滑稽としか云いようがない。
 しかし、教官諸氏よ。もうご安心されたい。即日に及ぶ我々の闘争の結果、東大の内外に教官の地位がもつ権威などありはしないことが知られるに至った。教官のメンタリティーからすれば、自分達を頂点におく大学内の階級制度にあって最下位にあるはずの用務員の人達からも、「あれで大学の先生かしら」という云い方でバカにされるに至ったのだ。
 教官諸氏よ。あなた方には権威はないのだ。
はじめから無かったのだ。もう大丈夫。これからは一人の人間として背のびせずに生きられる。その代り、人間として責任ある態度を、今からでも遅くない。身につけられよ。
 下を見おろすような態度でして来た学生処分、虫ケラを追い出すような考え方に立つ機動隊導入…‥・東大問題のすべてが教官の愚かな権威意識から出たものである。
 我々は東大非人問性の根源である異常な権威主義を打破するために闘って来たのだ。まだ残っているかも知れない権威を打破するための追及の手をゆるめてはならない。