「新たなる大学自治創出のために」
 

 東京大学東洋文化研究所助手有志/声明
「新たなる大学自治創出のために − われわれはかく考え、かく闘う」
(1968・7・3)

 たまには腹の底にあることを洗いざらいぶちまけてみようではないか。
われわれの歯は衣を着せるべく、あまりにも硬化しているはずだ。

 今回の警官隊導入にかんして、あらゆる者が「大学の自治」擁護を叫んでいる。自ら警官隊を導入した大河内総長から、民青系の諸君に至るまで、「大学の自治」は、神聖にして侵すべからざるシンボルの如く流通しているが、既成のシンボルにもたれかかってその本質とヴィジョンに根本的な検討を加えないならば、われわれは現在の状況を突き抜ける思想の強さを決して持ち得ないであろう。

 われわれの描く「大学自治」のヴィジョンとは、大学の実質をなす研究・教育の自由と、この自由を保証すべき組織である運営機構の両面において、自立し平等な全大学人の自己表現としての参与が完全に開花することにほかならない。そしてこのヴィジョンが実現されるとき、真向からの挑戦を受けた国家権力は、その本質たる暴力を全面的にさし向けてくるであろう。
真の決戦が行なわれるのはこの時であり、この闘いの前哨戦としての自覚を持たぬ一切の動きは、大学における闘いの名に値しない。

現在守るべき大学の自治が存在するか否かについて、是非が論じられているが、機構に関するかぎり、空洞化した「教授会の自治」しか存在しないことは、明々白々たる事実である。実質についていうなら、その直接的荷担者とされている教官にとって、たしかに一定の自治らしきものが保証されていることは否定できない。しかしこれは、われわれの大学において、現在の国家権力にとって我慢し得ない程度にまで危険な研究・危険な教育が行なわれていないため、有難くもお目こぼしの栄に浴しているにすぎない。機構において空洞化された教授会の自治のみが曲りなりにも維持されている現状は、この精神の活動における戦闘性の欠如とまさに見合ったものといわねばならない。防禦がそのまま攻撃に転ずるような体制に対決する思想=行動的戦線が築かれなければ、いまや既存の「自治」すら脆くむ崩壊し去るであろうことは明らかである。
六月十五日の医学部学生諸君による時計台占拠の思想=行動的意義は、右に述べた点に求められなければならない。

現在敵の大学に対する攻撃の主要な方向は、大学管理の行政面に向けられており、これを推進する文部省官僚と総長の牙城である時計台は、学内の全支配・抑圧機構の中枢に他ならない。この時計台に対し、果敢かつ実質的な攻撃が加えられたからこそ、学内の支配抑圧機構は、自らを背後で支えている国家権力の暴力装置たる警官隊を導入したのだ。そしてこの学内支配機構は、事実無根の暴力行為を名目とした大量処分を一方的に押付け、明白な事実誤認に対しても関知しないという徹底した抑圧者として存在してきた。

 大学当局はこの行為をすら「教育者」の「被教育者」に対する「教育的関係」とする恥知らずな主張を行っているが、ここに見られるのは、支配ー被支配の質以外の何者でもない。そして、その質たるや、被支配者に対する刑罰が、弁護や証拠調べ抜きの秘密の審査によって定められ、不服申し立て・再審理のプロセスは全く想定されていないという恐るべきものである。

理性と合理の府と称する東京大学の支配機構の本質は、一皮むけぱ地上のあらゆる階級的支配のそれと同じく暴力そのものなのだ。一切の話合いによる解決が拒まれ、発言の場を有さない学生にとって、最も直截な抵抗として、被支配者の最後に残された最も鋭利な武器である暴力を用いるのは当然であり、それはまた直接民主への志向を内包し、学内における抵抗権のあり方を生き生きと示したのである。

 体制のラディカルな変革を志向するはずの日共・民青諸君は、暴力による直接的抵抗を追求すれば、学内大衆を恐怖させ、闘争の壊滅をもたらすと信じているらしいが、勤勉手当差別支給阻止という勝利をかちとる決定的契機となった六・一二スト後の深夜に及ぶ組合員大衆による時計台占拠は、まさしく医学生の行動と同じ暴力の行使であり、当初東職の一部執行部が考えていたような少数の抗議団の派遣によっては、あのような成果の獲得は全く考えられなかった。しかも全学闘執行部による時計台占拠の通告が総長宛に出されていたあの時点の情況を考えるなら、「二つの異常事態」(庶務部長の言)をかかえた総長が、より妥協し易い要求と相手を選んで局面を切り抜けようとする計算を行ったであろうことほ疑いをいれない。皮肉ながら、東職執行部が自らの闘争の成果として誇る差別支給阻止成功には、当の東職が口を極めて誹誘する全学闘の闘いが有力な支援となっていたことを無視し得ないはずである。
 従って、占拠を行った学生に対する批判は、純粋に戦術的、それも技術面(例えば突入の時点設定その他) に限られるべきであり、それすらも、彼らの闘いに何ら実質的支援の手をさしのべてこなかった者の云云し得ることではない。しかるに、日共・民青及び七者協・東職執行部は「自治会民主主義」「団結と統一」の美名の下に、彼らに対して侮辱の限りを尽した悪口雑言を投げてきている。

そもそも、全学闘執行部が医学生・研修生の圧倒的な支持を基盤に闘いを切り拓きつつあった三月までの段階で、彼らに何らの実質的支援を与えず、片やその指導の下にある人びとのエネルギーを医学生の日和見部分を動揺させるという犯罪的な活動に浪費させ、他ならぬ医学部長に「処分撤回しない限り民青に指導が変る」(四・五臨時所長会議の発言)などと足下を見すかされるに至ったのは君たちではないか。「我々の運動の大きな武器は我々の正当性である。執行部自ら決定を無視し、全体の意見に従わず、かつ無用な暴力的行動に出ることは自ら正当性を放棄することによって運動全体を孤立に導く」(六・二四、七者協声明)のだそうだ。闘いの地平を切り拓いてきた全学闘執行部を「孤立に導い」ておきながら「正当性」を独占しようとは、何という破廉恥さであろう。医学部闘争における正当性とは、絵長・時計台・評議会・上田・豊川・医学部教授会等の抑圧機構に真正面からの闘いをいどむ部隊が、自らに最大限の学生大衆を引きつける過程に存在したのであり、七者協・東職執行部に全学規模の闘う「統一と団結」を実現する力量があるなら、全学の総力を全学闘執行部に集中する努力を尽くしてこそ、「正当性」を口にすることができるのだ。

 われわれは大河内冶長・豊川医学部長・上田病院長、その他の学巾。反動と時計台官僚を徹底的に糾弾する。
 総長こそは文部省−時計台官僚のルートによって直接的な支配を浸透させようとはかる国家権力の意を体して、東京大学の支配横構の頂点に坐し、大量不当処分を承認し、処分白紙撤回・大衆団交の要求に応ぜず、その当欽…の結果として医学生にょる直接的抵抗に直面するや、自らその本性をむき出しにして機動隊の導入を要請した元凶にほかならない。日共・民青系諸君や進歩派諸君が口にしてきた彼の「二面性」こそ帝国主義権力による大学支配の現下の形態である国大協路線の具体的な姿にほかならず、機動隊という暴力装置を導入することによってその主要な属性たる暴力性を余すところなく立証したのである。
 われわれほ大河内一男氏のパーソナリティなぞに全く興味も無ければ、その 「進歩性」に一片の期待も抱」きはしない。彼が現時点で演じつつある客観的な役割だけが問題なのである。日共・民青系諸君は、大河内総長と学内反動派に優劣の差等の存在するかのような幻想をふりまき、この根本的事実を隠蔽し得ると心得」ているらしいが、それほ帝国主義的支配において中道一派乃至中道左派の果す役割を見失い、国大協路線の本質を誤認した考え方で、まったく噴飯ものと言うほかない。彼は六月二十八日の ″総長所信表明集会″と称する一方的訓戒の場において、あたかも ″教育的関係″が現在の東大に存在するかのような擬態にしがみつきつつ、自らも手を汚した学生処分を、元来人間的に平等な関係を前提として成立するはずの「良心」 の問題にすりかえて、当局が旧来の秩序の回復しか意図していないことをさらけ出し、一方警官隊導入については、自己にすべての責任があると公言して、一片の反省の色も示さぬ居直り的態度に出たのである。

 われわれが要求しようとしまいと総長は辞任を余儀なくされるであろう。我々は支配者側の事態収拾の手段としての大河内総長辞任を許してはならない。大河内総長は、大学の病根・根元的腐敗の集中点として、学内大衆によって罷免されねばならない。絵長罷免に到る我々の力の集積は新たな真の自治の構築の展望を切り開くであろうし、逆にそれなしにはわれわれは何ものをも獲得できないことは確実である。今後の大学の管理運営にあたって、従来の方法が何らの変更を加えられずにまかり通るのか、それとも学内大衆の意志に形態はともあれ一定の考慮と敬意が払われるのかということは、まったくわれわれの闘いの如何に懸っている。当面、大河内総長及び全評議員は速かに学生の大衆団交要求に応じ、処分の全面的白紙撤回を約束し、警官隊導入について全学に謝罪すべきである。

 われわれは東洋文化研究所長・教授会を糾弾する。

 教授会「自治」しか存在しない東京大学の「自治」に責任を持ち得るのはあなた方までであり、あなた方自身、その枠内で自治が守れると考えてきたいじょう、大量処分以来でもすでに三ケ月を経過している医学部問題に関して、何ら実質的な解決への努力を行わず、当の教授会「自治」の残骸の上に今回の事態を招くに至った責任の一端を、あなた方の一人一人が負っているはずだ。また、本学の最高議決機関である評議会の一員として、前所長及び現所長は、大量処分を含む暴力的抑圧に直接の責任を有するといわねばならない。さらに、十七日朝の評議会に出席した現所長は、「満場寂として声な」かった列席者の一人として、警官隊導入を事実上了承した責任を免れないであろう。

 われわれはあなた方が局限された自治のイメージしか持ってこなかったことを率直に認め、階層問の差別を打破した新しい大学のあり方に一歩でも近づこうとする姿勢から、警官隊導入に抗議する意志を表明してくれることを期待し、二十日の所内懇談会において、教授会メンバーから助手までを含む教官有志による総長に宛てた意見書の提出を提案したのだった。すると、あなた方のうちの相当数の人々は、積極的にこの提案に賛同した。われわれは、できる限り多数の署名が集められるよう配慮し、最も抽象的な文言に収約されたわれわれに許容し得るかぎりの最低線で妥協しようとした。しかるに、文案をまとめる段階に至るや、前日積極的な態度を示した人々がたちまち日和見を起こして、他部局からの突出等々を心配し、教授会は所長−評議会のラインで事の解決に努力すべきだという既存体制埋没の論理を述べはじめ、ために意見書は棚上げの止むなきに至ったのである。この間の態度の豹変ぶりについて、後日の所内懇談会において問いただしたとき、われわれに与えられた答えは、あいまい極まる自己不在の情勢論でなければ、教授会メンバーは教援会「自治」の場において責任をとるべきだとする、事実上既存体制の再構築を目指す論理にすぎなかったあなた方は教授会「自治」の残骸にしがみついて、その改良を心掛けようとしているが、それは所詮われわれの関知せざる雲上の良心劇にすぎず、このような方途によって現在の危機が乗り切れたとするなら、その時出現するものは、強固に再編された国大協体制そのものであろう。


 われわれはあなた方に勧告する。

自らを学内支配の秩序から引き剥がす痛みに堪え、学内全階層の平等な参加による真の自治を闘いとる行動の端緒として、あなた方以外の教官・職員、さらに現下の闘争の最も草本的な戦闘力であり、無期限ストその他、あらゆる可能な形態によって闘いつつある学生諸君との連帯の方向を追求すべく、真摯なる努力を傾けられよ。あなた方が教授会「自治」なる支配体制の一端を担ってきた責任を回避せず、新たなる大学人として甦る唯一の道は、このような努力を具体的な行動によって示されることであり、われわれは幻想を持つことなくそれを希望している。

 われわれは現在の事態を単なる混乱とみなし、その「収拾」を計る試みを排撃する。現在われわれが経過しつつある状況の示すものは、帝国主義権力が国大協路線を基調として貫徹しょうとしている大学支配の動揺であり、意識することなしにその下士官としての役割を演じつつあった教授会「自治」の破産である。この状況を、旧来の支配構造の復活によって終焉させることを、われわれは拒否する。さしあたって、大学当局は以下の要求を受け入れよ。一、医学部不当処分白紙撤回。医学生・研修医(青医連) の要求を全面的に受け入れよ。


一、警察権力の学内導入反対。今回の導入に関して大河内総長は謝罪せよ。

一、前項の早急な実現のために、大河内総長は直ちに大衆団交に応ぜよ。
 さらにわれわれは次のように要求する。
一、大河内総長・豊川医学部長・上田病院長は辞任せよ。
一、評議会・教授会は自己批判せよ。
一、全学ならびに全部局に、全大学人の管理参加を検討する機関を設けよ。

 大学当局が実質的譲歩を少しも行わず、依然として旧来の支配を頑強に維持しようと努めている現在、意志表明の手段を絶たれた学生が、さまざまな形態の抵抗を展開するのは当然である。日共・民青系の諸君は、警官隊再導入を招く等々の理由で、相も変らず尖鋭な形態の闘いを妨害しょうと試みており、進歩派諸君のかなりの部分にもこれに同調する動きが存在していることを否定できない。医学生・研修医(青医達)の要求を全面的に支持しない者は論外であるが、その要求と闘いを基本的に支持すると称しながら、なおかつこのような主張をする諸君は、第一に、勝利に到る展望を自ら具体的に提示すべきであり、それなしに警官隊導入だけを焦点に据えるのは愚劣であって、何ら説得力を持たないであろう。果敢に闘っている部分を弾劾し孤立させることによって、当局の警官隊導入はかえって容易となるのだ。われわれはこの闘う部分を支持し、支援することによって警官隊の導入を阻止し、同時に勝利への展望を切り開いてゆかねばならない。ここ数日の学内の流動的状況を見るならは、この闘う部分に広汎な学内大衆の力を結集し、真の闘う統一と団結を作り上げることを可能とする条件は明らかに存在している。これを実現するか否かは、まさにわれわれ一人一人の努力に懸っているのであり、われわれはこれこそが現在における唯一の現実的な方向であるとの認識を持つ。


 終りに当って、われわれはわれわれ自身に向けてきびしい自己批判を行わねばならない。学内の大多数の人びと同じく、われわれも、また警官隊導入に端を発する今回の危機的状況によって、はじめて「自治」の実態たる学内支配の腐敗と頽廃を深刻に意識し、これと真剣に闘おうと決意するに至ったのであった。医学生諸君の闘いを孤立させてきたわれわれの精神に、惰眠をむさぼっていた頽廃部分の存在したことを、われわれは否定し得ない。われわれの責任は、学内支配層や、医学生の闘いを意識的に妨害してきた者たちの責任とは、全くその位相を異にするものであるが、それ故にこそ、一層鋭く自覚されなければならない。また、われわれは、われわれの置かれた位置について明確な認識を持たねばならない。われわれは助手であり、この階層に固有のあいまいで中間的な性格と、それに伴う種々の困難を自らに負っている。このような立場からの制約もあって、われわれは六・一七以後の過程においても、必ずしも十全に闘ってこれたとは断言できない。しかしながら、この文書を発表することによって、われわれは一つの選択を行ったのである。
われわれは今後学内の真に闘う部分に徹底的に依拠しつつ、大学に生きる限りでのわれわれの存在のすべてを賭けて、新たな大学自治の創出のため、われわれに可能なあらゆる方法によって闘うべき地平に、われわれ自身を突き出したと考える。

完全な勝利は全体制の変革される日まで実現されず、またそこに到る途上には、国家権力との、学内権力との、あるいは反体制運動内部の官僚どもとの、熾烈な開いが予想されるが、われわれはこの目標を目指して力を傾けるであろう。


 われわれは連帯を求めて、孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽さずにくじけることを拒否する。


東洋文化研究所助手10名


                                            


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