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全世界の闘う学友に
 

全世界の闘う学友に

東京大学学生より

−東大闘争の勝利を目指して −
 われわれ東京大学の学生が、大学本部を占拠して以来ほぼ一月の時が流れた。その問大学当局はわれわれの提起した問いには、何らの回答も寄せずに虚しく事態の収拾を試みただけであった。が、「事態の収拾」とは何を意味するか。「事態の収拾」なる言葉づかいの裡に、大学当局の有する論理の矛盾を看取しうる。すなわち大学の秩序維持は教授会の権限であり、それゆえ、教投会は、問題を抜本的に解決する代わりに、学生に多少の利益を分与することで、自らの教育者としての地位を安泰に保持しょうとしているのである。さらに従来より反動的な意見さえ新たに生じてきている。
 われわれが、上記の如き矛盾を内包した大学現行秩序に抗して闘うならば、われわれは権力者の暴力をもって一方的に処分される。このことは、大学が政府当局の暴力によって背後から支えられざるをえない構造になっていることを示している。大学は、「学問、研究の自由」の名の下に国家権力から独立しているかに見えるが、その実国家権力の、実力なき近親者にすぎないのであって、大学のさような地位は、大学内部を権威に反抗しないように自己規制する代償として得られたものである。大学は内外の暴力から学問・研究活動を守ると称しているが、実際は上記の如き機構を通じて現行秩序を乗り超えようとする学生を抑圧するだけである。これが、いわゆる「国立大学協会」路線の実態である。いまや大学が相対的独立を維持できるか否かさえ疑問である。教授会は、われわれは大学共同体の主人なりと考えているにもかかわらず、自らの存在すら国家権力に売渡しているのだ。

 われわれは一致してかような構造に反逆する。われわれの大学本部占拠は、われわれが最早国家権力の管理下に抑圧されはしないとするわれわれの思念の象徴である。それはまたわれわれが自己を取戻す作業の形態でもある。支配し、支配されるという現存秩序の構造は、自主規制という形で、われわれ自らの問にさえ投影している。いまやわれわれはわれわれの存在とわれわれの力を完全なものたらしめんとしているのであり、われわれの意識の解放を鞋ちとらんとしているのである。かつて与えられたもの、そしていま在るものはことごとく擬制にすぎない。われわれは所与に対してノンを言いうる主体を確立したのである。

 以上の如き見地に立つならば、教授会との話し合いは何らの有効性も有しないことは明白である。なぜなら教授会ほ現存秩序をあるがままに保守せんとしているのであるから。われわれは進歩的教援たちの良心の免罪符を売ってやるわけにはいかない。話し合いによって事が収まると考える教授たちには自らのピエロ的態度をよくよく省みるべきだと忠告してさしあげたい。

 われわれは、日共配下の学生諸君がこのような話し合いに無条件にとびつき、協議機関設置を価値あるものとして受け入れようとしているという点でその犯罪性を論難する。問題は、大学が一部反動的人物によって非民主的方向にひきづられるという単純なものだけではない。まさにその「民主的形態」そのものが現存秩序の矛盾を隠蔽し、われわれの批判の刃を鈍らせているということを理解すべきなのである。

一九六八年八月一一日
東京大学ベトナム反戦会議




  THE APPEAL TO THE STRUGGLING STUDENTS IN THE WORLD

              −FROM THE STUDENTS OF THE TOKYO UNIVERSITY

 −TO WIN THE VICTORY OF‘TOKYO UNIVERSITY STRUGGLE′−
It’s about one month since we the students of Tokyo University,occupied the university’s main
hall During that period university authorities only tried in vain to save the situation and did’nt give
to us.But what does’save the situation’means?In this expression we can find theogicalcontradiction of the university authorities;thatis to say,the order of the university is left only in the hands of faculty and they tries to keep themselves safe as educators giving something to students instead of setting the matter radically.Besides more reactlve views can be newly seen than before If we struggle against the present order which has such a contradiction stated above,We are punished by the violence of the authorities one−Sidedly.This fact shows us clearly that the structure of the universitymust be bcked with the violellCe Of governmellt authorities.The uIliversity seemsto beindependent from the state power under the name of”freedom of study”,but actuallyitis only a powerless relative being which results from self-regulation not to be against the authorities.
Itis this structure of the universjty that oppresses Only the students who areagaiIISt tbe presellt Order,
Whileinsists on defending the activities of studying against the violence both from the outside and the inside.Thisisthe reality of the self regulation ofsocalled’’NationalUniversity Association”Line.
Nowitis doubtfuiif the university can remain even relativelyindependent.The faculty,Who thnkthemselves to be the hosts of the community of tbe university,are Subject to the state power betrayirng themselves,Weareallagainst such a structureas this.Our occupation of the university’s main hallis the Symbolthat we should not be oppressedanylonger under the controlof the state power.It’s also the form through which we can regain ourselves.The structure of the present order,to rule and to be ruled,is reflected evenin ourselves,taking theform of self-regulation.Now weareat the point of Satisfying our exsistenceand power,and winning the liberation of ourconsciousness.What was givenand whatis now are allonly fictions We established the conscious subject who can deny what was given or whatis given.
If wetakethisviewabove,itisclearthatthereisnouse of talking each otber,since the faculty Want to keep the present order as it is We cannot selltheindulgence of the conscience of the”progressive,facuty We want to advice thepersons whoare going to settle the matter by talks that they shouldl reflect on their own pierrotlike attitude.
 Weblamethecriminalityofthestudentsunde‥heinflucnceofJapan Communist Party who aregoing to jump at the offer of tallking by the univevsity authorities without any condition and value the idea of establishing organization of the university・Wemustrealize not only that the university is now being driven into the non-democratic corner by some reactionists,but also that the very democraticformafterallcoverupthecontradictionofthepresent order,and du11s theedge of our blade againstit.

AUGUST 11th,’68
ANTI−VIETNAM WAR COMMITTEE OF TOKYO UNIVERSITY
(TODAIVIETNAM HANSEN KAIGI)



「僕を含めて、安保の世代がその後どうなったのか、何人かは精神的に死滅していった。そして何人かは、所さん、あなたの言葉を借りれば、精神的に放浪児になった。そして何人かは、その当時の彼等が達した地点を必死になって守り続けている。つまり悪くいえば、当時の貯えで食いつないでいるか、せいぜい遺産にみがきをかけている。しかし、それらの多くは、今の状況に対処しえなくなったのではないか。だが所さん、あなたはそのような型での生存を拒否した人だった。
あなたは、貪欲なまでに知的に生き続けることを欲した、そのあなたが死んでいった。生きていて欲しかった。」 
(山本義隆氏弔辞より)


樺美智子と同じ日にデモに初参加し、樺美智子の死を国会構内で聞き、東大闘争の幕あけに生を閉じた所美都子。彼女もまた、「安保に病んだ世代」として、樺美智子の死を思想の核とし、そこを出発点とした、ひとりであった。


〈「生産の論理」により合理化される殺人
非合理化される生存の開花
ケチ臭く「価値なきものを取り除く」
なんだってかんだってみんなそこにあったっていいじやあないか
〈能率〉が大手を振る
ムダという言葉でバサリバサリと生存が切りとられる
何が残った?
これは何だい?
よそよそしいリボゾーム
これが私だって?)「ノート66年6月19日」

「10・21のストを成功させるため何が自分にできるか考えてみた。
  東京駅頭にプラカードを持って立つ。
  十七日から仲間が立ち始めた。
  今日も夕方六時から入時頃まで東京駅八重洲中央口に立つ、明日も。
  東京駅の群衆にもまれるなかで、自らのすり切れた反戦の肯志を再びよみがえらせ、それがその群集の中の火種となって育つことを夢み「一人であっても意志表示ができるのだ」ということが当り前となるように。」     (「東大ベトナム反戦会議」アピール)

 お茶の水駅での花くばりは、所美都子の独創的なアイディアであった。プラカードを持って彼女一人雑踏に立ち、街行く人に花を渡す。主張を書いたビラも持たず、声をあげて呼びかけもしない。花を手わたされた人は、自分の頭で花とプラカードを結びつけなければならない。与えられた、ビラにかかれた「反戦の意志」ではなく、みずからの答えをださなくてはならない。彼女はそこから何かが生まれるかもしれないと信じている…。

 藤沢市内の小さな寺に、突然インターの歌声がひびいた。
東大ベトナム反戦会議」の旗とインターの歌声と、のちの東大闘争のメンバー、山本義隆氏の「生きていて欲しかった。かつて、全学連の先頭にいたあなたは、いまでもまた七〇年においても、先頭にたてる人なのだから」という弔辞とに送られて。

 所美都子の柩が送られた日・・・一九六八年一月二九日・・・東大医学部学生は無期限ストに入った。
彼女が永眠した二七日、医学部全学大会において、賛成二二九、反対二八、保留二八、棄権二で、無期限スト突入が決定されたのである。
ひとつの短いけれど、激しい生命の燃焼が終わった日、東大闘争の幕が静かに切っておとされたのである。

所美都子
一九三九年一月三日、東京・江戸川に生まる。藤沢市の小学校、中学校をへて、一九五四年、県立湘南高等学校入学。高校時代は生物研究部と社会科学研究部に属し、山歩きしながら生物学への興味を深める。
 五七年四月、お茶の水女子大学理学部植物科入学。同時に山岳部へ入部。クラスの自治委員、原水爆対策委員などをする。五九年、六〇年は安保闘争に参加。羽田闘争、六・一五国会突入などに奔走する。八月には、一ヵ月問、三池闘争へ。
 六一年一〇月、大阪大学へ、翌年同大学理学系大学院に入学。「薬剤耐性菌の遺伝機構」の研究に着手したが発病して中退。六四年お茶の水女子大学理学系大学院へ。六六年修了。四月、東京大学新聞研究所研究生。「東大ベトナム反戦会議」などで活躍し、同時に『予感される組織について』などの論文を執筆。
 六七年一二月、過労で倒れ、翌年一月二七日死去。
 享年 二九。




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